Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

北風が強くなってきた

2018年01月21日 23時12分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夕方にいったん風はおさまったが、再び風が強くなってきた。団地の中では風は東から西に抜けているが、団地の外に出るとほぼ北から吹いているようだ。そして風の音がしている。
 夜のウォーキングをしてきたが、日曜日の夜ということで車の行き来も、人の往来も少ないようだ。あるいは寒いためだろうか。
 つい俯いたまま歩いてきたので、星空を見あげたのは団地に着く直前、ほんの一瞬であった。冬の大三角(オリオン座のペテルギウス、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン)はすぐに分かったが、おうし座、ぎょしゃ座、ふたご座を見つける前に寒いので急いで家に入ってしまった。

明日は横浜でも雪の予報

2018年01月21日 21時26分08秒 | 天気と自然災害
 「大雪と暴風雪及び高波に関する全般気象情報 第3号」が16時30分に気象庁予報部から発表されている。

平成30年1月21日16時30分 気象庁予報部発表
(見出し)発達する低気圧の影響で、22日は西日本から北日本の太平洋側の広い範囲で雪が降り、山地を中心に平野部でも大雪となる所がある見込みです。また、23日からは冬型の気圧配置が強まるでしょう。大雪や路面凍結による交通障害に注意・警戒し、なだれや着雪に注意してください。
(本文)
[気圧配置など]
 22日は、低気圧が発達しながら、西日本の南海上から東日本の南岸を東北東へ進むでしょう。また、23日から日本の上空に強い寒気が流れ込み、強い冬型の気圧配置となる見込みです。強い冬型の気圧配置は27日頃にかけて続くでしょう。
[防災事項]
<大雪>
 22日は、西日本では明け方から、東日本では昼過ぎから、太平洋側の広い範囲で雪が降り、山地を中心に平野部でも大雪となる見込みです。また、23日昼頃からは、冬型の気圧配置が強まるため、北陸地方や北日本の日本海側を中心に、大雪となるでしょう。
 22日18時までの24時間に予想される降雪量は、多い所で、
  関東甲信地方                20センチ
  中国地方、四国地方、北陸地方        15センチ
  九州北部地方、近畿地方、東海地方、東北地方 10センチ
 23日18時までの24時間に予想される降雪量は、多い所で、
  関東甲信地方、東北地方       20から40センチ
の見込みです。
 大雪や路面凍結による交通障害に注意・警戒し、なだれや着雪に注意してください。
<暴風雪・高波>
 23日は、東北日本海側と北陸地方を中心に雪を伴った非常に強い風が吹き、その後、27日頃にかけて強い冬型の気圧配置となるため、猛ふぶきとなる所があるでしょう。また、北日本を中心に海は大しけとなる見込みです。
 東北日本海側と北陸地方を中心に、猛ふぶきや吹きだまりによる交通障害、暴風や高波に警戒してください。
[補足事項]
 地元気象台が発表する警報や注意報、気象情報に留意してください。この情報は「強い冬型の気圧配置に関する全般気象情報」を引き継ぐものです。
 次の「大雪と暴風雪及び高波に関する全般気象情報」は、22日5時頃発表する予定です。



 横浜では明日は朝から北の風が強く吹き、12時以降に雨が降り始め、15時から雪の予報である。気温の予報は最低気温3℃、最高気温が5℃となっている。明日は朝から大雪警報が発令されるらしい。
 23日(火)は明け方前から雪掻きをしなくてはいけないようだ。


メジロの群れ

2018年01月21日 18時38分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はいつものとおり、買い物の荷物運びを求められ、スーパーを3軒とパン屋などを、往復約1万歩ほどの「業務」に従事。1万歩といってもスタスタ歩いたわけではなく、スーパーの店内をユックリ見て回り、そして重いリュックを背負いながらのんびりと歩いのたで、運動量としてはあまりない。
 風が冷たかったものの、日が当たるところは暖かく感じた。さらに帰宅時には風も止み、ダウンのコートの下の薄手のセーターが暑く感じた。

 行く途中の公園の木にメジロが4~5羽群れているのをしばらく眺めることができた。人をあまり怖がらず、わずか1メートルほどの距離から眺めていた。妻はいたくご満悦。不思議と心が和むものである。


「ものの本質をとらえる」ということ

2018年01月21日 12時41分58秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 もう15年以上も昔、俳句の実作を教わったころ、小さな俳句の結社に入った。その主宰から「ものの本質を捉えなさい」と云われた。私はどうしてもそのことばの意味がつかめなかった。
 私が次のようなみずすましの句をつくった時、その主宰はみずすましの本質をとらえている、と褒めてくれた。

★太陽も水もわがものみずすまし
 太陽がぎらぎらと照る夏の日、小さな池にみずすましが群れていた。汗がしたたるような夏の日が温まった水に反射し、眩しい。その光る水面を自由に素早く行き来するみずすましにみとれて作った句である。何とも他愛のない句、幼い句ををつくったともいえるが、句の調子や言葉のリズムが自分なりに気に入っていた。みずすましに自分を投影しているとまでは考えていないが、退職後に美術館などを楽しんでいる自由に振る舞えるようになった自分の気分が反映していたかもしれない。

 しかしみずすましの本質とは何であろうか。みずすましという動物の一側面をうまく言い当てている、というのは「本質をとらえる」とは違う。当時「本質」とは何か、そして「とらえる」とは何か、ずいぶん悩んだ。
主宰がみずすましをどうとらえているのか、さっぱりわからないし、私が「本質」とおもうものとは違うはずなのだが、一般論的に「本質」とポンと言ってしまっていいのか、と不思議に思い続けた。



 一般に観察者アがいて、たとえばみずすましを観察した時には、その目に映る形態のある側面Aを見つめている。あるいは側面Dもまた見つめているかもしれない。別の観察者イは側面Bをとおしてみずすましを観察している。その形態だけを読むこともまたみずすましのある存在形態を言っていて、いづれもまた真実である。例えば側面Aは観察をどんどん細かくして、足の数や足がどう動くか、どのように水の上で動くか、スローモーションのように動きを分析することもできる。側面Bは顕微鏡をのぞくように細部にこだわる観察もある。背景の水や波、太陽や、大気の様子からみずすましを浮き上がらせる観察もある。
 同時にみずすましという生き物の生物学的な位置付けや進化の歴史などの表面からは見ることのできない「核①」を側面Aをとおして類推することも、観察である。その場合側面Aから直に反射して観察者の眼に飛び込むみずすましの視線による像と、「核①」に到達してから再度側面Aという被膜をとおして観察者にとどく視線による像とが絡み合って観察者アはみずすましを「了解」する。
 具体的に言うと、足の形や数や目の形態から、進化論的な像を思い浮かべてみずすましを観察する場合であろう。
 一方で表面から見えないもう一つの「核②」というものもある。みずすましというものが、日本の文芸などでどのように扱われてきたのか、日本語の「みずすまし」ということばに貼り付いたイメージ、あるいは観察者イが幼児から観念の中に取り込んできたみずすましのイメージもある。それを観察者イが側面Bのような操作で、自分のみずすましのイメージを観察するばあもある。幼児体験としてのみずすましの像を顕微鏡をのぞくように細かな体部を観察していく、ということなどが具体敵に想定できる。
 またひょっとしたら観察者イは側面Bをとおして、核②を想定しながら核①をも見透かしているかもしれない。

 私は当時属した俳句結社の主宰のいう本質が、「側面」なのか「核」なのか、あるいは観察者の観ようとする視線なのか見当がつかなかった。
 同時に観察者の見た側面Aをとおして表現した俳句から、読者が核②を想定して鑑賞することある。「もの」のある側面と核、そして観察者の他に、読者・評者という眼もまた関わってきて、表現に対する鑑賞というのが成立する。

 こんなことを考えているうちに、私はさまざまなことがあってその小さな俳句結社を退会してしまった。

 退会してからこのような図を作って、「本質なるもの」という言い方の曖昧さを理解したような気になった。さらにこの図に鑑賞者・評者というさらに立体的な視線を付け加えることと、鑑賞者⇒表現者という注をいれることで、「ものの本質をとらえる」ということに近づけるのかな、という感想ももっている。