Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は朝から夜まで‥

2018年01月17日 22時53分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 夕方出かけて帰るときは大雨・洪水・雷・強風注意報が発令されていた。ダウンのコートではなく防水のコートを着て出かけたのでズボンだけが多少濡れた程度で済んだ。

 本日の作業は終了。本当は横浜美術館で開催されている石内都展の感想をアップしたいのだが、資料作りなどがあり、来週でないと無理になってしまった。

 雨も止んだのでこれから若干の夜のウォーキング。それほどの寒さではないが、いつまた降り出すかわからないような厚い雲が空を覆っている。

 明日は午前中からみなとみらい地区での講座、午後は所用があり、夕方から再び新年会。明日の新年会は所属した労働組合の私の属した支部の新年会。特に懐かしい仲間の顔を見るのが楽しみである。同時に退職予定者に退職者会への加入のお願いをすることになっている。そのための書類も先ほど作った。退職して6年、現役の組合の仲間に読んでもらえるのは嬉しい限りである。

予報どおり雨

2018年01月17日 14時36分31秒 | 天気と自然災害
 本日も10時まで寝ていた。起きる気がしないとか、やる気がおきないというのではなく、とても眠かった。昨晩、お酒を過ごしたわけでもない。体が休みたがっているのだろうか。
 昨晩作りかけたブログを先ほど作り直した投稿した後は、会議の資料作り。そろそろ疲れたので、横浜駅の喫茶店に出かけるつもりになった。しかし朝のうちに15℃ちかくあった気温は下がっているようであり、雨も降り出している。傘をさすのは面倒だが、引きこもっているほうがさらに嫌である。
 読みかけの文庫本をリュックに詰めて出かけることにした。

阪神淡路大震災から23年

2018年01月17日 12時23分41秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は阪神淡路大震災から23年目、日本の災害対策の転換点ともいわれる地震災害であった。当時の自分のさまざまな振舞いなどを思い出しながら、犠牲者を偲んだり、今後に生かしたり、いろいろな感慨を記したりしてみたいものである。
 もうすぐ四半世紀になろうとしている。自分自身の体内時計からすると不思議な時間感覚でもある。

 あの戦争が敗戦を迎えたのが1945年、私が生まれたのが1951年、今に続く大人の眼で社会に関心を持ち始めたのが1968年頃。戦争を体験はしていないが、この間は23年。社会は色濃く敗戦後の世相をひきづっていた時期に幼年期を過ごした。しかしどこか1945年の世界は、靄がかかったように遠いもどかしい世界であった。それでもそれを意識的にできるだけ引き寄せようとし始めたのが、1968年である。社会全体の痛手もあまりに壊滅的で広範囲に大きかったこともあり、あの戦争からの復興は時間がかかった。人々の意識も、戦争に対する評価も分裂し、その違いが国論の分裂の兆しが次第に顕著になりつつあった。高度経済成長政策のゆがみと犠牲が噴出もした23年であった。

 1995年の地震から同じく23年経った。私はすでに44歳で中年真っ盛りで、人生でもっとも忙しく慌ただしい時期にその時を迎えた。むろん横浜にいたので地震の恐怖やその後の混乱を直接体験はしなかったものの、震災直後からさまざまなかかわりを持った。今は現役を離れて老境に入っている。
 震災からの表向きの復興はそれなりに急ピッチで進んだ。また、災害対策の高度化や、災害時のノウハウの普遍化や制度化も進んだと思われる。だが、震災後の復興というのも、日本の社会全体を覆う少子高齢化や社会の多きな構造変化とは無縁ではない。その病理は逆に大きな災害地にこそ集中的に現われる。その例が地域社会の解体であり、地元経済の落ちこみであるとドキュメンタリー番組などで紹介されるようになった。ハード面の復興と、ひとびとの意識の乖離とでも表現してもいいのかもしれない。
 東北の震災・津波・原発の災害は多分阪神淡路大震災よりもさらに深刻である。

 風化というフィルターを通しながらも、表向きの復興と、実際の人々の思いは常に乖離していく。表向きの復興の背後に追いやられたひとびとや事象をひとつひとつ丁寧に検証しなくては、同じことがさらに繰り返される。現地で、現場で関わるさまざまに苦闘するひとびとの思いを、誰が、どこで、どのように次につなげるか、傍目のようだがとても気になる。
 23年前、私の属する自治体の労働組合のボランティアで、震災2週間後から、2週間区役所や避難所の応援で満足に食事も仮眠も出来ずに奮闘した仲間が横浜に戻ってきて発した言葉が忘れられない。「人々は生きるために形相が変わっている。周囲に対する配慮などまるで喪失している。何が起こるか不安を持ち続けた」。同時に「避難所では、運営に積極的にかかわる人、暗黙の協力をする人、協力を拒否する人、秩序や取りあえずの決まりをひたすら破壊し混乱させる人、この4種類に分けられてしまう。協力してくれる前2者の割合が多いのがせめてもの救いであった」。
 それぞれに一つの場面しか見ていない、という批判はあるかも知れないが、それぞれに現実のことである。それもまた大事な一面である。

 人は危機に遭遇したときこそ、その本当の姿が現われ、そしてその人の真価が問われる。常に自分の体内時計、体験との胸の内での対話を繰り返しながら、自分を見つめていきたいものである。このことをあらためて教えてくれた23年前の地震災害であった。これは20歳以降、いつも考えていたことではあり、何か迷うことがあるたびに同じように自分に言い聞かせていたことである。だが、23年前のときにも44歳という年なりに大きなインパクトで胸に響いてきた。