Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

成人式

2018年01月07日 22時47分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日から明後日にかけて全国的に天気は荒れて、関東地方では雨が降るらしい。しかも明後日の最高気温が横浜では17℃との予報。春の気温である。
 明日は成人式、今ではだれもが異を唱えないようだが、あの晴れ着と称する振袖、紋付きなる装束にどうしても違和感を持つ。できるだけあのような格好の傍に近寄らないようにしている。街に出るとどうしても出くわしてしまう。ということで、明日は横浜駅まで出かけることは避けたい。新横浜駅近くで横浜市の成人式展があるので、横浜駅もまたあの装束で溢れかえる。

 私が「成人式」を迎えたのは、1972年。学費闘争がこじれて大学のバリケードの中でその日を迎えた。特に「成人式」という意識はなかったし、どちらかというとあの晴れ着には各マスコミもまた懐疑的な論調が多かった。男は紋付などというものは「封建遺制」ということでまず着なかった。ネクタイ・背広姿が多かった。女性は振袖で変わらなかったが、あまりの派手さ、煌びやかさには社会は総じて否定的であった。
 私がたまたまその日の昼に、バリケードの中での食事の買出しに出て、仙台市の成人式展の会場の前を通りかかった。そのとき赤子を抱いて振り袖姿姿で成人式典から出てきた嬉しそうな女性に出くわした。その瞬間、私はこの赤子を抱いた女性がとても大人びて見えた。私などの運動が彼女らにはまったく届いていないことの象徴のような気がして、たじろいだことをおぼえている。直接に背負っている生活の重み、というものをいたく感じた。
 むろん参加している多くの当時の学生は仕送りも途絶えがちな次男、三男ばかり。数少ない女性も「早く就職ないし結婚」して親に仕送りをしなくてはいけないといわれつづけていたいわゆる「貧乏学生」が極めて多かったので、背負っているものに差はなかったのだが‥。そして頭の中では人はそれぞれそこにある状況の中で、抱え込んだ問題をできるだけ普遍化しながらもがき続けることでしか自分の生き方を見つけることは出来ないと思っていた。それをあらためて強く実感した日であった。

 私の娘のときは、娘が振袖なるものは着てみたい、というので成人式の半年前の誕生日に振袖を着て写真を撮影してもらった。成人式当日は娘はどこかに遊びに行って、参加しなかったと記憶しているが、そこら辺の記憶はどうもはっきりしなくなってしまった。

七草粥

2018年01月07日 20時57分44秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 だいぶ寒い日であったが、左の脹脛の痛みもほとんど感じなくなり、本日も横浜駅までの往復で足慣らし。とちゅう喫茶店で読書タイム。久しぶりに推理小説で頭の体操。といってもすぐに人が殺される推理小説はどうも殺伐としていけない。人が死ぬことのない推理小説をめくっていた。そのような小説はティーンエージャー向けといわれるような表紙の文庫本なので購入するときはなんとなく気恥ずかしいものがある。
 本日の横浜駅の地下街は年末や3日の人混み以上の賑わい。喫茶店も満員でやっとひとり分の席を確保した。しかし5ページほど読んだらもう眠くなってしまった。シリーズ物の推理小説だが、この巻はあまり面白くない。少し捻り過ぎで、なおかつ饒舌すぎるように思えた。
 頼まれた買い物をスーパーで購入して帰宅。焼豆腐を購入したのだが、少し高すぎるとお小言を頂戴した。

★晴天の山ひとつ負ひ薺粥(なずながゆ)     廣瀬直人
★吹くたびに緑まさりて七日粥         小沢初江


 七草粥は七日粥とも薺粥ともいう。また七種粥とも表記される。「延喜式」では宮中でこの日に,米,アワ,キビ,ヒエ,子(みの)(ムツオレグサ),ゴマ,アズキの7種の穀物を入れた七種(ななくさ)粥を天皇に供えたが,一般の官人には米にアズキを入れた粥を供したようだ。
 これが民間にも普及し、いつからかセリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロを入れた塩味の粥を食べるようになったらしい。また地方によってさまざまなバリエーションがあり、これらの7つにないものが入るらしい。七草粥は私の好物のひとつである。
 今では300円ほどでパックに入ったものが売られている。


「清宮質文展」の図録を見ながら (3)

2018年01月07日 11時31分31秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 「さまよう蝶」(1963 国立近代美術館)のイメージは1960年代から頻出する。ただし1950年代、作者の初期の作品群にすでに空中に浮遊する丸い円形は静物、人物画にかかわらず幾度も現れている。例えば「ふるさとのうた」(1957)、「十字のある静物」(1958)、「葦」(1958)、「キリコ」(1959)など。光の表象だったり、ただよう魂の行方の暗示だったりしている。
 この作品も中央は、儚げに夜の街の空をさまよう蝶である。しかし蝶の下から右端へ転々と連なる円形の斑点は、二つ連なってはいないので蝶ではないと思われる。星でもない。街の明かりでもない。蝶は本来不規則でランダムな動きをする。そのただよう不規則な運動にも一定の方向性は確かに在る。その方向を暗示しているのかもしれない。あるいは一定の自然な時間の流れ、時間軸を示し、それにしばられることなく飛翔するさまよう蝶との絡み合いを示しているとも考えられる。何とも暗示的な作品に私は感じた。
 この作品は東京国立近代美術館の収蔵品なので、私は以前に見ているはずだ。とても懐かしく感じる作品である。蝶と思われる丸い二つの円形には共に画面の左上を見あげる眼が描きこまれている。印象的な赤い月を見あげようとしているのか、前方の虚空をみているのか、判然とはしない。だが、不規則な蝶の動きとはいえ、確実な意思を持って飛翔しているということなのかもしれない。そしてその眼は鑑賞者を見つめる作者の視線であるようだ。時代のどのような側面を凝視しようとしたのか、興味が尽きない。



 「ながれ」(1966)は3点ある。ここに取り上げたのは茨城県近代美術館所蔵のもの。他の2点は個人蔵となっている。解説によると作者の記述として「ながれ-何処からきて何処へ流れてゆくのでしょうか、ひとびとは。その一人として、これらのいとおしいひとびとの哀歓を私は描きたいのです」。また夫人に上方の3つの小さな円は「これは希望の意味だよ」と語ったという。円形の斑点はここでは3つに限定され、そして希望の表象となっている。ここでは運動の方向を表してはいないようだ。
 群衆はルドンの作品のようにひとりひとりがひとつの眼によって表現されている。その眼の瞳は皆同じ方向を見ている。見つめている。これは街の中を通り過ぎる通勤・通学者や繁華街の群衆を表しているのだろうか。それともデモ隊であろうか。意外と整然と3列に並んでいるところを見ると、訓練された隊列にも見える。街の中の群衆ならば別々の方向を見ているように描いたのではないか。すると行進するデモ隊だろうか。1966年という年代からは軍隊の行進とは思えない。そのデモ隊を、作者のいうように「いとおしいひとびと」と素直に捉えるのが当然なのだろうか。デモ隊に対する親和性、共感があるとも感じる。これはあくまでも想像でしかないのだが。
 そして群衆というといくら不特定多数といえども「集団」としてとらえると、どこかでいつの間にかひとつの意思を持つものでもある。
 解釈は見た人の数だけある。以上はあくまでも私の勝手な想像であることは忘れないでいただきたい。



 次の気になった作品はこの魚が描かれたものである。題名はたいてい作品を見た後にみるので、「山上の湖」(1981、茨城県近代美術館)を見たときには、魚を載せた円形は水をたたえた地球の表象で、上の6つの円形が地球以外の惑星に見えた。魚が地球の象徴というの強引すぎる解釈だと思って題名を見た。
 題名からは、山の上の湖と、その夜空のイメージらしい、と理解した。山の上の湖を地球の象徴とすれば、私の直観も捨てたものではないとひそかにほくそ笑んだ作品である。作品に目を凝らすと、湖の周りと空に色の違いがあり、山の稜線のようになっている。これは観察不足であった。
 しかしこの魚、どのようにして山の上の湖に達したのであろうか。不思議と云えば不思議な存在の地球である。動物と植物という時間が限定された生命体がどのようにして生まれ、どのような意志を持ち、その存在領域を広げてきたか、作品が作られてから50年経っても、「科学」では未だ未解明である。