これは「ヤママユガ」(1889年、ファン・ゴッホ美術館)。ゴッホもこのような作品を残していたのかと驚いた。このような花鳥画が3点ほど、そして素描が2点ほど展示されていた。素描は細かな細密画を思わせるようなものである。
特に素描、デッサンから秋田蘭画を思い出した。佐竹曙山や小田野直武の細密画である。昨年読んだ「江戸の花鳥画」(今橋理子、講談社学芸文庫)でありあげている諸家のさまざまな作品が去来した。
しかし博物学的な見地から描かれたものとは違い、これを近代芸術家の眼で再構成したように思った。しかし参考として展示されているものは、二代目広重の三十六歌撰などの浮世絵なので、細密画の影響ではないのかもしれない。
しかし二代目広重の三十六歌撰は、近景に花を大きく写実的に描きながら、中景に風景に溶け込んだ人々や人工物を描いている。
ゴッホの作品は「ヤママユガ」そのものが主題である。だとすると浮世絵などよりも博物学的な細密画そのものを芸術的な作品としてみようという指向性を感じるべきではないのかと思った。
秋田蘭画が、長崎という小さな窓から影響を受け、それが西洋の画家に影響を歌えたということなのであろう。しかし私にはゴッホが浮世絵以外の日本の細密画を研究したという情報は持ち合わせてはいない。ゴッホの受けた影響はあくまでも浮世絵とされている。
1989年、亡くなる前年はサン=レミの療養所の中で描く対象が身近なものに限られたとはいえ、様々な試行を繰り返したゴッホという画家のエネルギーには驚嘆に値すると思った。
本展覧会のゴッホの作品では最晩年の作品と思われるのは「ポプラ林の中の二人」(1890年、シンシナティ美術館)である。この作品も私は初めて目にする。
「下草とキヅタのある木の幹」や「草むらの中の幹」「ヤママユガ」などのように空や水平線が消え、明るい色調に彩色されている。「草むらの中の幹」のような木々が人工林のように直線状に整然と立っている。林の奥は空のようでもあるが濃紺で塗られているが、これは空ではなくあくまでも「背景」として明るい花と草を際立たせるための彩色に思える。リズミカルな木の配置と白と黄と緑の下草と花々、それらの筆の方向のリズムは心地よい効果を与えていると思う。
しかしそれだけでは絵として散漫にするのでほぼ中央に人物二人が配置されたと思うのだが、この人物、他の晩年の風景画に現われる人物よりも実在感が希薄である。二人の人物の下半身は草と花の向こうに隠れている。人物のある所だけ男の胸の高さまで花の色が描かれており、これでは男女の二人がのんびりと歩くのは不可能である。しかも草や花の丈と比べて小さすぎる。ゴッホの風景画に描かれる人物はいづれも顔の表情がわかるものはない。しかしこの作品では存在そのものが危うい。不思議な作品である。
この作品以降、展示はゴッホの日本受容の歴史に関する資料であるが、この感想は省略したい。