今回、図録を見ていてどこかで見たことのある懐かしい作品や、初めて見る作品など興味深く眺めている。
清宮質文は、レオナルド・ダ・ヴィンチの素描、オディロン・ルドン、聖書などの影響がよく指摘される。
その中で、「火を運ぶ女」という作品が二つ目についた。いづれも初めて目にしたと思う。
1957年の「火を運ぶ女」(前者)と、1963年の同名の作品(後者)である。共に個人蔵という表示となっている。1930年代にパブロ・ピカソの版画作品「ミノタウロマキア」に出てくるミノタウロスに光を差し出す少女が出てくる。これはゲルニカにもたいまつをかざす手に発展していくものともとらえられるが、そのイメージが私には浮かんできた。
1930年代の不安な時代を背景にしたミノタウロマキアのイメージが1950年代の緊張に満ちた不安な時代と二重写しに版画家に何らかの影響を与えていたのではないだろうか。「火を運ぶ女」はピカソのように存在感を示し、どこか希望と救いの象徴のような少女ではなく、どことなく存在感が無く、それこそお化けのように質感が希薄に描かれている。しかし灯火のような火には決しては思えない。人魂のようにふっと消えてしまいそうな火には見えない。実在の暖かみを確かに持つ火に見える。
この両者の違いは何なのだろう。今のところよくわからないが、とても気になっている。こんなことを考えながら図録をめくっていると、なかなか前には進まない。
清宮質文は、レオナルド・ダ・ヴィンチの素描、オディロン・ルドン、聖書などの影響がよく指摘される。
その中で、「火を運ぶ女」という作品が二つ目についた。いづれも初めて目にしたと思う。
1957年の「火を運ぶ女」(前者)と、1963年の同名の作品(後者)である。共に個人蔵という表示となっている。1930年代にパブロ・ピカソの版画作品「ミノタウロマキア」に出てくるミノタウロスに光を差し出す少女が出てくる。これはゲルニカにもたいまつをかざす手に発展していくものともとらえられるが、そのイメージが私には浮かんできた。
1930年代の不安な時代を背景にしたミノタウロマキアのイメージが1950年代の緊張に満ちた不安な時代と二重写しに版画家に何らかの影響を与えていたのではないだろうか。「火を運ぶ女」はピカソのように存在感を示し、どこか希望と救いの象徴のような少女ではなく、どことなく存在感が無く、それこそお化けのように質感が希薄に描かれている。しかし灯火のような火には決しては思えない。人魂のようにふっと消えてしまいそうな火には見えない。実在の暖かみを確かに持つ火に見える。
この両者の違いは何なのだろう。今のところよくわからないが、とても気になっている。こんなことを考えながら図録をめくっていると、なかなか前には進まない。