Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

立待月と冬の星をいくつか

2018年11月24日 22時08分03秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 本日は立待月。先ほどウォーキングに出てみたら、ちょうど東の方向に月がことのほか明るく輝いている。かなり丸く見えたので十六夜の月かと思ったら、立待月であった。夕方の厚い雲は取り払われ、切れ切れの雲が全天の三分の一ほど。

 本日は西の空に火星を見てから、久しぶりに北の空が見渡せる場所から空を見上げた。しかし北極星とカシオペア座のWの形を微かに認めたばかりであった。北斗七星は地平線に近いので確認できなかった。

 月の見える位置から東にかけては雲が多く、月の北側の店長に近い方向にぎょしゃ座のカペラがようやく見えた。また月より地平線に近くオリオン座の右肩のペテルギウスと左肩の二等星、垂直になった小三つ星を見つけた。左足首のリゲルも眼を凝らして確認した。

 シリウスやプロキオンは雲と街の明かりと家の影で確認できなかった。しかしオリオン座とは久しぶりに対面した気分であった。

 オリオン座はいつみても雄大である。本日のように地平線に横たわっていても、大きいというよりも雄大に見える。北斗七星もまた雄大である。どちらが空を圧していると見るか、好みの問題である。

★踏みしめる首都のあかりを寒オリオン  庄司たけし
★立ちあがる力いま欲し寒北斗      高橋克郎


 明日は午前中は団地のことで作業を少々。午後からは特に予定はない。

忘年会の予定が次々と‥

2018年11月24日 20時17分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 忘年会の誘いがいくつか来ている。今月26日、来月の1日ダブり、6日、17日、20日という具合である。まだまだ増えそうな気配である。誘われなくなったら、人生おしまいが近づいているのだ、というので、忘年会・新年会のお誘いはよろこぶことにしている。

 3日が血液検査と薬の処方の日なので、順調にいっても3日以降でなければお酒は口にできない。医師に隠れてお酒は飲めるかもしれないが、妻は騙せない。飲めば匂いですぐにわかってしまう。またこれ以上病気の予後が長引いて迷惑をかけるわけにもいかない。長引けばこの予後の後始末で、死ぬまで迷惑をかけることになりそうである。

 26日(月)は学生時代の友人と新年会の下見でイタリアンの店に行く予定。お酒は無論遠慮する。1日は昼間はみかん狩りとその後の飲み会の誘いがあり、夜は都内での忘年会。昼間は申し訳ないが欠席して体調を整え、夜のみ短時間の参加という予定をとりあえず立てた。入院中に心配をしてくれた友人に報告をしなくてはいけない。
 6日は午後から会議があり、その後の懇親会が忘年会のようなもの。これもお酒は遠慮しようかと考えている。飲んでもビールをコップに1杯程度。たとえお酒が解禁になっても、いきなり外で深酒は自信がない。医師からお酒が解禁になっても、外で飲むのは中旬以降としたいと思う。下手に酔っぱらって、外で立ち往生しては迷惑をかけてしまう。

 医師が3日の日にお酒の再開を許さないとすれば、次回の診察は年明けなので正月のお酒もダメということになりそうだ。

 本日は14℃に達せず、風が冷たく寒い日であった。そして一日中雲が空を厚く多い、夜のウォーキングでも星空は見込み薄す。

 これより少し早めだが、夜のウォーキングに出かけてくる。


「ルーベンス展」(国立西洋美術館) 4

2018年11月24日 14時01分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 前回はルーベンスの躍動的な描写について記載した。躍動感、誇張された人間の姿態、情念・感情と肉体の劇的な統一。私の理解の範囲で、バロック絵画である所以を述べた。

 ルーベンスの描く女性のヌードには私は強い違和感を持つ。どうしてこんなに豊満なのであろうか。当時の理想の女性像だという言い方もある。古代の中国・日本でも豊満な肉付きの女性が理想の女性像だったらしいので、それは受け入れるのだが。
 ルーベンスの女性像は二つの種類があるように思える。生身の現実の女性やギリシャ・ローマ神話に登場する女神、旧約聖書の女性たちがひとつの類型。そしてもうひとつは天使なり、キリスト教的な聖性をもつ女性像である。ルーベンスはこれらを明確に描き分けているようだ。
 ルーベンスは前者の女性像を豊満な肉体を誇示するように描いている。後者はどちらかというと、ほっそりとしている。





 かかげた作品は「バラの刺に傷つくヴィーナス」(1608-10、南カリフォルニア大学フィッシャー美術館)と「法悦のマグダラのマリア」(1625-28、リール美術館)。
 前者の解説記事によると「晩年により顕著となる豊満な女性像」という表現がある。それを確かめることは出来なかったのだが、それよりも先のとおりに描き分けをしていると私は勝手に解釈している。

 「法悦のマグダラのマリア」は死の場面ではなく右上の光の存在によって法悦の場面であると、解説記事にも記されている。その当否は別として、法悦と死が不可分のものとして現れるという、「信仰」というものの究極のありようなどを垣間見る作品である。
 この作品はフランチェスコ会の聖堂に置かれていたという履歴を見て、あらためて中世から近世にかけての信仰ということについて考えさせられた。



 今回の展示で、話題になっているのが「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」(1615-16、リヒテンシュタイン侯爵家コレクション)。ルーベンスと最初の妻との間に生まれた長女の5歳の頃の作品と解説されている。
 全開のルーベンス展で話題になった「眠るふたりの子供」(1612-13、国立西洋美術館)が今回も展示されている。このふたつを並べると、この長女の肖像に私は強く惹かれた。
 神話や伝説的な説話の劇的表現とはおもむきはおおいに違うが、人間の感情表現に卓越した画家の手腕を感じた。

無為の日がうれしい

2018年11月24日 10時48分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今朝の天気予報のメールでは、横浜の最高気温は13℃。予報どおりならば今期一番の寒さである。13℃で寒い、といっているのであれば、さらに寒い地域の方に笑われてしまいそうだ。しかし慣れというものはすごい。私も横浜から仙台に行って、最初の冬は寒いと感じたが、翌年からは特に寒いという感想は持たなかった。逆に仙台から横浜に戻って最初の年はずいぶん暖かいんだな、と思った。しかし2年目からはそれが当たり前で、10℃よりも低くなると、とても寒く感じたものである。

 人の順応性のすごさ、あるいは皮膚感覚の相対性には驚く。

 本日は特に予定が入っていない。無為の日でありたい。無為の日というと何か損をしたような日々だと思うのは現役の頃の思いだ。今は、無為の日が嬉しい。毎日であれば飽きが来そうだが、1週間に2から3日は人に左右されない日、「仕事」に追われない日、自分の好きなこと以外には何もしない日が嬉しい。

 本日はルーベンス展の感想の最終回を仕上げたいものである。繰り返すが、無為の日とは、他人に左右される日ではなく、自分で自分の好きなことに自分の時間を使える日なのである。
 ただし、他人の中に「家族」が踏まれてしまうと、いろいろと問題が生じてくる。これは難しい問いになってしまう。人の世には触れてはならない地雷がある。