ようやく「セザンヌ物語」(吉田秀和、ちくま文庫)を読み終わった。読み応えがあった。セザンヌの作品は好きである。心惹かれるものがある。しかしどこがいいのかと云われると説明に窮する。不思議である。筆致を見ると何となくぞんざいに描いているようだ。色彩も青や緑が多くばッとした明るさがない。人物や静物の構図も歪んでいて、ホッとすることはない。風景画は形が判然としないものもある。塗り残しもあり、それがどんな効果を狙ったものか、分からない。
それでもとても気になる。吉田秀和もそこら辺の疑問から出発している。いつものとおり覚書風に抜き書きする。
「私は、ごく早いころから、セザンヌをみて、不安を覚え「どうして、こう描かれているのか。ぜ、彼の絵には、局部的に見ると一応わかっても、全体としてみると整合性が失われる不思議な画面が、こんなに多く、表れてきたのだろうか?」と考えずにいられなかった‥」
「静物画は‥テーブルのふちや脚そのほかの直線が交えられて出来上がっているのだけれど、そのほかに、直線、途中で断ち切られた直線が支配する画面も少なくない。これれは私を不思議がらせ、不安西、不快にした。同時に、これらの絵の意味は、ルネサンス以来の近代的パースペクティヴの光学の法則が犯され、捻じ曲げられたり、あるいは別の何かにより侵蝕されている事態を告げている‥」
「静物画では、空間の造形、視点の取り方が、近代的パースペクティヴのそれとは非常に違っていて‥、これらの絵は長い間みていると、軽い眩暈を覚えたり、時には頭が痛くなるようなことさえひき起こす。そのくせ、細部をきにしないでいると、そこに盛られた色彩と警鐘の豊麗さが、ほかのどんな大家の静物画でも感じたことのない身力で私をひきつけてやまない‥」「
「近代的パースペクティヴの美学、その不可分のアンシンメトリーの構図を解消しても、なお精神の勝利の刻印と呼ぶほかないような作品群が、ここに成立している。」
「晩年の《サント・ヴィクトワール山》の連らを見続けていると、単純な構図の中で、色彩がどんなに重要な役を演じているかが通関されてくる。単純な構図は、色彩の、この驚異的な表現力を遺憾なく発揮さす場をつとめる枠組のようにさえ見えてくる。色彩、それからその色彩のおき方、タッチの縦横自在な運動。」
「セザンヌの青は、印象派の外光絵画の青でもなければ、ゴッホやゴーギャンの空に見るようなデコラティヴで単純化された空の青でもない。‥あるいくつもの青を重ね合わせてつくられ、しかも透明な色の層であって、一方ではそれを透かしてカンヴァスの下地がみえるし、他方では木の葉の緑の反響がきかれる。セザンヌでは、極度に密度の高いプロシアンブルーとコバルトブルーである。この青を根音として、その上にほかのすべての色が関係づけられ、ひこから彼の色の音階が展開される。」
最後に次のような一節がある。
「私の美術論は、このセザンヌで、クライマックスと終点を迎える。セザンヌこそ、自然のすべて、自分の外のそればかりでなく、自分の内なる自然、つまり人間精神の姿に及ぶ宇宙を、画布という資格の平面の中に把えつくすという高い志を持して生き、ついに死んだひとだった。彼こそは人物画、風景画、静物画のすべてにわたる画家であり、そのどれ一つ欠けても充分でない制作をした人間だった。彼はあくまでも自然に忠実であろうと努めながら、同時に、それが自分の精神の目を通じ、自分の精神の姿を反映したものであることをすてまいとした。そうして描かれた絵に、宇宙のすべてが一つの秩序による調和の中に、とらえられていなければならなかったのである。」
それでもとても気になる。吉田秀和もそこら辺の疑問から出発している。いつものとおり覚書風に抜き書きする。
「私は、ごく早いころから、セザンヌをみて、不安を覚え「どうして、こう描かれているのか。ぜ、彼の絵には、局部的に見ると一応わかっても、全体としてみると整合性が失われる不思議な画面が、こんなに多く、表れてきたのだろうか?」と考えずにいられなかった‥」
「静物画は‥テーブルのふちや脚そのほかの直線が交えられて出来上がっているのだけれど、そのほかに、直線、途中で断ち切られた直線が支配する画面も少なくない。これれは私を不思議がらせ、不安西、不快にした。同時に、これらの絵の意味は、ルネサンス以来の近代的パースペクティヴの光学の法則が犯され、捻じ曲げられたり、あるいは別の何かにより侵蝕されている事態を告げている‥」
「静物画では、空間の造形、視点の取り方が、近代的パースペクティヴのそれとは非常に違っていて‥、これらの絵は長い間みていると、軽い眩暈を覚えたり、時には頭が痛くなるようなことさえひき起こす。そのくせ、細部をきにしないでいると、そこに盛られた色彩と警鐘の豊麗さが、ほかのどんな大家の静物画でも感じたことのない身力で私をひきつけてやまない‥」「
「近代的パースペクティヴの美学、その不可分のアンシンメトリーの構図を解消しても、なお精神の勝利の刻印と呼ぶほかないような作品群が、ここに成立している。」
「晩年の《サント・ヴィクトワール山》の連らを見続けていると、単純な構図の中で、色彩がどんなに重要な役を演じているかが通関されてくる。単純な構図は、色彩の、この驚異的な表現力を遺憾なく発揮さす場をつとめる枠組のようにさえ見えてくる。色彩、それからその色彩のおき方、タッチの縦横自在な運動。」
「セザンヌの青は、印象派の外光絵画の青でもなければ、ゴッホやゴーギャンの空に見るようなデコラティヴで単純化された空の青でもない。‥あるいくつもの青を重ね合わせてつくられ、しかも透明な色の層であって、一方ではそれを透かしてカンヴァスの下地がみえるし、他方では木の葉の緑の反響がきかれる。セザンヌでは、極度に密度の高いプロシアンブルーとコバルトブルーである。この青を根音として、その上にほかのすべての色が関係づけられ、ひこから彼の色の音階が展開される。」
最後に次のような一節がある。
「私の美術論は、このセザンヌで、クライマックスと終点を迎える。セザンヌこそ、自然のすべて、自分の外のそればかりでなく、自分の内なる自然、つまり人間精神の姿に及ぶ宇宙を、画布という資格の平面の中に把えつくすという高い志を持して生き、ついに死んだひとだった。彼こそは人物画、風景画、静物画のすべてにわたる画家であり、そのどれ一つ欠けても充分でない制作をした人間だった。彼はあくまでも自然に忠実であろうと努めながら、同時に、それが自分の精神の目を通じ、自分の精神の姿を反映したものであることをすてまいとした。そうして描かれた絵に、宇宙のすべてが一つの秩序による調和の中に、とらえられていなければならなかったのである。」