Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

安藤広重と川瀬巴水

2018年11月17日 23時43分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 会議は22時過ぎて終了。さすがに疲れた。いつも日付が変わってから風呂に入る私は眠くはないが、早寝・早起きという健康的な生活習慣の人にとってはつらい会議である。
 疲れた私は帰宅してお茶を飲んで50分ほどボーっとしていた。ようやく頭が回り始めた。

 明日も会議が午前・午後団地内である。私は午前中に参加する。午後は休養を兼ねて、どこかの喫茶店でコーヒータイムとしたい。

 本日と明日にかけて、退職者会の会議の資料作り。なかなかハードなスケジュールである。

 先ほどテレビを見ていたら川瀬巴水の版画を紹介していた。広重の名所江戸百景と、巴水の東京二十景の比較。同じ場所の実刑と広重の作品、巴水の作品を並べていた。これはなかなかいい企画であった。

 広重の視点が鳥瞰図的で、巴水の下から見上げるように視点が低いことをあらためて認識した。しかし巴水の下から見上げる視点は、他の広重の下から見上げる構図の作品のように極端な誇張はない。ごく自然な描写ながら表情が隠された人と見上げるような風景が、静謐な情感をもたらしてくれている。巴水の作品はやはり夜の風景に強く光れる。微かに月や、家などから漏れる明かりに惹きつけられるのだ。

 巴水の東京二十景が関東大震災直後の東京の風景を匂わせるように映し出していることは知っていたが、広重の名所江戸百景が安政の地震後に復興の意図もあったことについては恥ずかしながら初めての認識した。安政地震は1855(安政2)年、横浜開港は1859年。安政の大獄や翌年に桜田門外の変と幕末の動乱期である。
 ともに大震災の後の江戸、そして東京を題材としたという共通点があった。あらためて巴水の東京二十景を見たいと思った。



 作品は、東京二十景から「新大橋」(1926)、「馬込の月」(1930)、「大森海岸」(1930)。

ノンアルコールビール

2018年11月17日 17時12分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先輩からお酒を飲んではいけないのならば、ノンアルコールビールがいいよ、と云われた。私はノンアルコールビールは飲まない。実は出始めた頃に一口飲んだことがあるが、私の口には合わなかった。だいたいの食べ物、飲み物について好き嫌いはない。食べ物ではホヤ以外は口にしないものはない。飲み物も飲めないものはないと思っていたが、ノンアルコールビールはダメだった。
 先輩は、今は各社ごとに味に違いがあるし、昔に比べて美味しくなったのできっと口に合うものがあるはずだという。
 飲んでみようかという気にはなったが、いろいろと種類があるのでそれを買いそろえて飲み比べるほどのエネルギーが湧かない。そこまでしてお酒気分を味わうこともない、と思っている。
 私はウーロン茶、緑茶、紅茶などの各種のお茶も大好きなので、今のところお茶で十分である。

 明後日、退職者会の幹事会がある。終了後飲みに行くのに付き合うかもしれない。その時はノンアルコールビールではなく、ウーロン茶にしようかと考えている。もしもノンアルコールビールを是非飲めと言われたらどうやってことわろうか、ウィットに富む答えを考えたいが、考えているうちに、参加するのが面倒になってしまいそうである。

 これより早めの夕食を摂り、会議の資料を印刷して、会議に臨む。


宿題の思い出

2018年11月17日 11時09分15秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 夜の会議の資料作り何とかはほぼ完成。これからお茶を一服。一服している間に抜けていること、書き忘れていることを思い出すかもしれない。このゆとりの一服が大切な時間である。
 今朝は14.3℃と昨日よりも暖かい気温が記されているが、肌寒く感じる、風もないのに昨日より寒く感じるのは不思議である。昨日はベランダの戸を開けて外気を室内に入れていたが、本日はそれをすると風邪をひきそうな具合である。

 ルーベンス展と駒井哲郎展の感想が宿題として残っている。宿題というのは人の気持ちを縛るものである。小学校の時から好きなことばではない。誰もが嫌な響きで受けとめたと思う。中学・高校では受験校だったが、宿題がたくさん出た。はっきり言って教師同士でなにも打合せがされていないから、どう考えても一晩でこなせない量が出された。それぞれの教師が時間内に講義できなかったことを宿題として次回までにこなしてくるように指示するのであった。
 きっと今でもそれは変らない風景だと思う。国語や古文・漢文、数学などはいつも予習するのが好きだったので、宿題はだいたいすでに終わっている。しかし苦手な英語はどうしても宿題をこなせなかった。こなせないと次の授業では「お客さん」状態で、ついていけなかった。
 今思い出しても腹が立つ教師は、だいたいが宿題の扱いに関することで記憶している。こんなことを50年経っても覚えているとは、私は実に執念深い性格なのだろうか。教師はそれほど宿題について、宿題を出された生徒の苦労について、それほど深く考えていなかった様子があった。「時間泥棒」と叫びたかった時期は長く、あまりに長かった。