Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「画聖 雪舟の素顔」 その4

2022年10月10日 22時44分10秒 | 読書

         

 「画聖 雪舟の素顔」の第4章「雪舟入明」を読み終わった。いつものように要点をいくつか。
(当時の明の絵画の特徴は)荒々しい筆遣いと「整った」とは言いがたい画面構成は、雪舟の持ち味であるパワフルさと荒っぽさ、そして独特の空間感覚にぴったりだった。京都の繊細な画風には合わせられなかった雪舟だが、中国ではむしろ自分の資質に近い画風が流行っている。・・「日本でもやっていける」という確信を持てたのも大きかった。‥帰国後の雪舟は中国で得たものを上手にアレンジしながら、日本でも受け入れられる絵を描いて行く。自己の造形感覚を殺すことなく、周囲の要求に応えて多彩な作品を生みだすすべを我がものとした。
もうひとつの「中国の大自然」の体験は同だったのか。‥実際に中国の風景を見たことによる最大の成果は「山水画」ではなく、‥「随行カメラマン」としての技を身につけたことだったのである。‥現地の印象とそのスケッチに絵図などからの情報も組みあわせて「リアリティ」と「分かりやすさ」そして「実用性」を兼ねそなえた、水墨による写生風の風景画を作り上げる。それは、当時の日本では画期的な「ヴィジュアル情報化」の方法だったのである。

 雪舟は、この章の結論からすると、日本にかなり画期的な絵画のあり方をもたらしたようだ。それは中国絵画の模倣ではなく、自分の資質と、禅僧という社会的な役割を積極的にアピールしながら勝ち取った人間関係との合作、ということになるようだ。
 「随行カメラマン」「ヴィジュアル情報化」という表現がなかなか説得力のある指摘だと感じた。


蒸し暑い風

2022年10月10日 21時07分25秒 | 天気と自然災害

 15時過ぎくらいからとても蒸し暑くなった。南側のベランダの扉を開けると気持ち悪くなるくらいに湿気の多い生ぬるい風が室内に吹き込んできた。慌てて扉を閉めた。
 室内よりも外のほうが気温も高くなり、北側の階段室でも結露が異常に発生。しばらくすると階段室の踊り場も水たまりのように水がたまった。
 16時には気温は25.9℃まで上がった。明日はさらに気温が上がる予報になっていた。
 この高湿度の中を横浜駅までいつもの通りにバスにて出かけた。当初は美術館に行くつもりではいたが、日が差し始めたのが14時過ぎ。15時過ぎまでパソコン前に陣取って作業をしていたので、美術館は断念した。
 本日も横浜駅周辺は人出はすごかった。喫茶店にもいかず、書店にも寄らず、親に頼まれた買い物を百円ショップで済ませて、再びバスにて帰宅。


宿題を思い出す

2022年10月10日 11時31分32秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 昨晩出かけることを考え、このブログにも記載したが、布団に入って退職者会の事務作業で残っていることがあることに気がついた。午後もこの作業をこなさなくてはいけないことを思い出した。
 午後から出かけるのではなく、夕方になってようやく時間を作ることが出来ることがわかり、がっかり。
 一方で宿題を思い出した中学生のようなもの。ホッとした一瞬でもあった。

 高校を卒業して大学に通い始めても、また就職してからもときどき中学・高校時代に宿題を忘れたことをふと思い出して慌てたことが幾度もある。そんな恐怖から解放されたのは20代半ば過ぎてからのような気がする。それほどの恐怖を味わっていた自分が情けなくもあった。
 後から考えると実際に宿題を忘れてそんなに慌てたことはあまりなかったような気もする。単に恐怖だけが植え付けられて、よみがえったのだと思える。恐怖だけが独り歩きして、それが恰も実際の体験だったかのように錯覚しているのだと思うようになった。それが20代半ば過ぎの頃だったのだろう。
 そしてそのような恐怖はたいてい好きではなかった教科の記憶であった。その科目の教師で6年間でどうしても馴染めなかったのは一人だけで、教師はその恐怖には登場しない。教科そのものが私を恐怖に陥れるように、宿題を忘れたという形になってふと脳裏によみがえるのであった。
 今ではもうそんな恐怖は思い出すことはない。恐怖に襲われた、という記憶だけが残っている。