Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「名画がうまれるとき」 その1

2022年10月22日 23時27分19秒 | 読書

   

 「名画の生まれるとき」(宮下規久朗)を読み始め、本日は第1章「名画の中の名画」の「名画のはらむ新解釈」を読み終えた。カラヴァッジョ《聖マタイの召命》の中に描かれているはずの「マタイ」とはどの人物を指すのか、という議論と最近の解釈についての解説である。
 私は端から左端の人間が聖マタイと思いこんでいたし、これからもそう思い続けると思うが、なかなか単純ではないらしい。しかもキリストと見られる人物が指さすしぐさも何となく力が入っておらず、キリスト自身もペテロの影に隠れて影が薄い。
 キリスト自身も召命に自信が持てていないのか、聖ペテロを中心とした初期キリスト教会の操り人形であったキリスト、という物語が当時からあったのかもしれない、という解釈もできる。元徴税吏であったという聖マタイという話も、徴税吏のいた場所から誰かが召命を受けた、という落ちをまことしやかに話している人にもあったことがある。
 いろいろな解釈があるということは、このカラヴァッジョの作品が「本当のことを描いている」ような迫力に満ちている証左でもある。

 そんなことを考えさせてくれる一節であった。


軽くハイキングの試運転

2022年10月22日 21時26分53秒 | 山行・旅行・散策

 夕食後、退職者会ニュースの原稿づくりを少しだけ再開した。3つの記事を仕上げ、別の記事の写真を4枚ほど貼りつけた。これにて本日の作業は終了。しかしまだまだ完成にはほど遠い。

 明日は友人と横浜市内で1万歩程度のハイキングに挑戦。まだまだ恐々の試運転の段階である。天気は良いようで、最高気温も25℃とひょっとしたら汗ばむ程度。膝の痛みが出ないように祈るだけでは迷惑もかかるので、一応2回分の鎮痛剤は持参する。リュックもできるだけ軽くしていきたい。むろん杖は持参。
 終了後は軽く居酒屋で寛ぐ予定。皆退職者会のようには呑まない仲間である。
 


本日の講座と本日からの読書「名画の生まれるとき」

2022年10月22日 18時39分50秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 午前中は神奈川大学の講座を受講。「「沖縄 1972年」考 返還・復帰・再併合」の3回目「経済からみた「復帰」」というテーマで屋嘉宗彦法政大学名誉教授(元法政大学沖縄文化研究所長)の講演であった。
 経済学の観点からの視点も新鮮で、押さえておきたい無いようであったが同時に、沖縄の開発計画を第一次から第五次までの全国総合開発計画との関係で述べていた。1970年代初頭、新全総に対する批判を学生時代に教わり、議論したことを思い出した。
 沖縄の開発計画に対してもこういう視点が最近は見受けられないことに気がついたことも本日の収穫。沖縄を巡る議論を検証する視点として大事にしたいと思った。
 惜しむらくは、資料が配布されず、パワーポイントの画面だけということで、筆記が間に合わず、記録が整はなかったこと。とても残念であった。



 さて、本日から読み始めたのは「名画の生まれるとき 美術の力Ⅱ」(宮下規久朗、光文社新書)。
 この本を購入するか、書店で迷っているとき、たまたま佐藤哲三の作品のページが開いた。この手の入門書・解説書のような場合に佐藤哲三が登場するのは珍しいのではないだろうか。私は洲之内徹の本で佐藤哲三を知り、2004年の回顧展を見てさらに虜になって、現在に至っている。
 戦中から戦後にかけて新潟県で農民運動家としても活躍し、晩年は神原平野に特有のタモノキとみぞれの情景をさかんに描いている。本書には44歳という若さで亡くなってしまう死の前年の「みぞれ」(1953年)がこの本には大きく印刷されていた。
 それに感激し、すぐに購入手続きをとった。言及は多くはないが、取り上げてあるだけで嬉しかった。

 


読了「画聖 雪舟の素顔」

2022年10月22日 07時31分46秒 | 読書

      

 「画聖 雪舟の素顔 天橋立図に隠された謎」(島尾新、朝日選書)を読み終えた。



「慧可断臂図」の達磨の衣の線はマーカーで引いたよう。こんな太細のない線は「気韻生動」を旨とする水墨画の線の常識を覆している。上目づかいの顔はほとんどキャラクターデザインで、しかも完全なプロフィール(横顔)。ユーモラスに見えながら、笑えそうで笑えない不思議な迫力がある。そして、主人公であるはずの達磨は、周りの岩に飲み込まれそうで、足も手も縮こまり衣の墨色も薄い。雪舟による新たな達磨像への、そして水墨表現への朝鮮なのである。拙宗時代の達磨から四十年、禅の人物画もこのような破格へと行き着いている。」(第5章 豊後と美濃への旅)


「破墨山水図」は、雪舟によるほとんどダメ押しのような自己プロデュースだった。‥後世に残された「本人のことば」が「雪舟神話」のもととなったことは繰り返すまでもない。すでに山口の老大家として不動の地位を築き、中国での成功譚も知られるようになった上での京都へのメッセージ。画風も都の趣味を意識して、柔らかく瑞々しいものにしている。雪舟は、若いころの挫折感を生涯引きづっていたようだ。あえていえばこの絵と自題は、天下も狙える西国の大大名のもとで成功した画家の、京都へのちょっとした逆襲であり、その胸の内にはまだ都への思いが生きていた。」(第5章 豊後と美濃への旅)