Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日は3.11 その2

2023年03月11日 21時34分59秒 | 天気と自然災害

 私は仙台の大学を卒業したので、友人が東北地方に多く住んでいる。12年前のあの日の夜から、東北・北海道の友人に電話連絡で安否を確かめようとしたが、まったく電話が通じないのがつらかった。
 太平洋岸だけでなく、日本海側の山形・秋田・青森西部、北海道西部に住んでいるかたにも電話が通じなかった。翌日には新潟でも関連する大きな地震があり、新潟にも電話が通じなくなった。
 山形や秋田の友人に電話が通じたのが3日後か4日後の夜だったと思う。それから少しずつ電話が通じたが、宮城・岩手・福島に通じたのが一週間後くらいであったと思う。原発事故もあり、とても心配をした。家屋被害にあったかたはいたが、怪我をしたかたはいなかったのが不幸中のさいわいであった。

 福島県の双葉町は学生時代に亡くなった同級生の実家があった町である。以前そのお墓参りに伺ったことがある。実家は海沿いにあり、お墓はさらに海に近く、広々とした太平洋を臨む小さな高台にあった。タチアオイが咲いていたお墓であった。しかしあのお墓も実家も間違いなく津波で流されたはずである。
 そして原発事故で立ち入り禁止が帰宅困難区域に指定されたようだ。今はどうなっているのであろうか。実家の方々は被害をまぬがれたのであろうか。

 さらにたまたま地震の前年の秋の始めごろ、東松島市内に妻の親が購入した幽霊地が陸前大塚駅近くにあり、その処分をしようと、仙台・石巻の法務局に行く機会があった。ついでに学生時代以来35年ぶりに懐かしい女川駅を訪れた。学生時代に女川原発反対運動の集まりに2度ほど出向いたことがあるだけであるが、懐かしかった。
 その前年の2月にチリ地震津波があり、女川町も津波で湾内の養殖場に被害を受けた。海岸沿いの繁華街も60cmほどの水に浸かる被害があった。
 海岸からわずかに100mもない小綺麗な3階建の小さな寿司店に入った。若い寿司職人が家族で営んでいた。チリ地震の津波の建物被害のことや、湾内のホヤや牡蠣の被害について聞きながら、塩竈の浦霞を、ナマコの酢の物、貝の刺身の盛り合わせを肴に昼食代わりに呑んだ。有意義な時間であった。
 その店もどうなっているのか、あれから一度も訪れていない。震災後野蒜海岸までは学生時代の友人と訪れたものの、時間切れて行くことがかなわなかった。
 区画整理で新しい街づくりがなされたと聞いているが、店の名も忘れてしまい、探す手立ては無くなっている。いづれは訪れたい場所である。
 そして今でも時々思い出したように怖くなるのである。あと半年遅くそこを訪れていたら、私も地震と津波の被害を受けて、生きてはいなかったのではないか。そう思うと、あの地震が他人事ではなく、身近な怖れとなって体が震える。

 義父の所有していた土地は処分できずにそのままとなってしまっている。その土地があった場所のすぐ近くには震災復興住宅で造成・開発がされていることまでは、現地で震災後に確認した。さらに津波被害にあった仙石線が津波で被害に遭い高台に移った箇所を、妻と一緒に歩き、未だ被害の様相が生々しい場面を見て回ったことがある。その後の状況もまた見て回りたいと念願している。

 その他まだまだ私の頭の中ではどこか宙ぶらりんの状態のまま、現在もときどき顔をのぞかせるものがある。このモヤモヤも無理かもしれないが、いつかは解消したいのである。


本日は3.11

2023年03月11日 20時32分11秒 | 天気と自然災害

 本日は家でのんびりしているつもりであったが、妻と陽気に誘われて杖を突いて、地下鉄の上大岡駅まで出かけてみた。懐かしい上大岡駅周辺をのんびりと散歩。帰りは今度はバスに乗り鎌倉街道を北上して横浜駅まで。家についてみると6500歩ほどであった。杖を突いていたので、ほとんど右足に痛みは感じなかった。ずいぶんと楽に歩くことが出来た。
 バスで関内駅周辺やみなとみらい地区を通り過ぎたが、窓から多くの人がみなとみらい地区に出ていた。コンサートか何かもあるらしく、若い女性が歩道いっぱいに並んでいた。閑所たちはバスには乗ることはなく、バスはスムーズに横浜駅に辿り着いた。たまにはバスで遠出をしてみるのも楽しいことに気がついた。

 バスといえば、12年前の本日の夜、職場からの帰途は最初バスで本郷台駅からバスを乗り継いで横浜駅に辿り着こうとした。しかし始発のバスにやっとの思いで乗ったものの、ぎゅうぎゅうで立っているのもつらく、また息苦しいほど混雑。バス停で二つ目に早々に降りて、歩いて横浜駅をめざしたことを思い出した。あの日、あまりの混雑のため後ろから乗り、後ろから降りたので、バス代も払うこともできなかった。前のドアは混雑のため、開けることすらできなかったようだ。

 街灯も消えて、追い抜いていく自動車のヘッドランプの明かりだけを頼りに、まずは上大岡駅をめざした。栄区は一般住宅も街路灯も停電であったが、港南区は住宅も街路灯も点いていて、それだけでもホッとしたものである。自動販売機で売れ残っていたスポーツドリンクで喉をうるおした時は生き返った心地がしたものである。
 しかし行く先々のコンビニもスーパーも食料品や飲み物は棚から消えていた。袋物のお菓子も缶詰もカップ麺も粉末の味噌汁もなかった。
 先ほど購入した500CCのスポーツドリンク1本だけで、桜木町駅まで歩いた。駅の近くのある町内会館で、やかんに入った暖かいお茶をもらい、便所を借りることが出来たときは本当にうれしかった。
 横浜駅に辿り着いてみると、駅の構内では若いサラリーマンが大勢たむろしていた。聞こえてきた会話では「戸塚駅までなんか遠くて歩けない」とか、「海老名まで歩けないからこの通路で寝る」というような内容であった。「若いのに‥」と思ったが、60歳のオジサンのほうが逞しいのか、と自信が湧いてきた。
 帰宅してみると妻もまだ帰宅していなかった。深夜近くになり、どうやら携帯電話が繋がり六本木から妙蓮寺駅まで歩いてきたという。そして電車が動くということで、横浜方面の電車にギリギリで飛び込めたとのこと。日付がかわる直前に妻は家に辿り着いた。
 妻の体力からは想像もできないほど頑張って歩いたようで、感心したものである。距離は多分17kmほどであろうか。

 家では電気もガスも水道も通じており、シャワーを浴びて簡単でも暖かい食事が何よりもごちそうであった。家の中はものが倒れたりしてはいなかった。食器棚のカップがガラス戸にもたれかかり、開けるのに苦労した程度であった。
 その晩は余震にも目が覚めずにぐっすりと寝てしまった。翌12日土曜日からはテレビの報道に釘付けになった。さいわいにも米をはじめ食材は数日分は買ってあったので、特に心配はしなかったが、計画停電になるのではないか、という心配が強かった。しかし私の住んでいるところは横浜の中心部に近いということもあるようで、計画停電の対象からは外れたようであった。

 14日(月)からは職場に出て、昼間は本来業務の道路・下水・公園の点検活動、その合間に点在している18区と本庁舎に電話をかけまくり、組合員の安否確認に精をだした。15日の夜には組合の会館に出向いて本部に組合員の安否や職場の被害のなかったことなどを伝えてひと段落した。
 管理している道路や下水道管の液状化で被害があった職場は、点検やら修繕で大忙し。同時に本庁舎は高層階にあり、机やロッカーや書庫、コピー機などが散乱し大きな影響を受けていた。
 阪神淡路大震災の時とは違って、横浜市内も被害が出ており、労働組合としても東北地域への支援に力を出す状況にはすぐにはならず、いろいろと苦労が絶えなかった。しかも私は翌年に定年を迎えるので、前年の10月の大会で支部の役員を降りていた。

 3月11日はこんなことを思い出しながら、当時得た教訓などを思い出す日にしている。毎年少しずつ思い出す場面が違っている。それもまた大切にして活かしていきたい。