Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「秘島探検の全記録」(NHKBS)

2020年03月27日 11時35分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 午前中は久しぶりにテレビの番組を長時間見ることになった。

 NHKのBS放送で「東京ロストワールド 秘島探検の全記録」が再放送された。2019年に前編だけみていたが、本日は前・後編両方を連続して放送。9時から10時50分まで。

 番組の紹介は次のようになっていた。

小笠原・伊豆諸島の絶海の孤島をめぐる大冒険。科学者たちとNHKの調査隊が特別な許可を得て5年にわたって島々を調査した。噴火が続き拡大が止まらない「西之島」。生まれて3万年、生物進化がオンゴーイングで起きている「南硫黄島」。海から突然とそびえ立つ「そうふ岩」。これらの島を巡ると生物がいかに進化し、豊かな生態系を築いていくか、まるでタイムトラベルするかのように体感できる。かのダーウィンも憧れる世界!【語り】園部啓一,久保田祐佳

 こういう番組を見ると、自分が理系を選択した学生時代にフィールドワークの領域に踏み込まなかったことを悔やむことがある。ただし方向転換して就職した職場は別の意味でフィールドワークであったのはとても幸いだったと思う。私にはデスクワークは似つかわしくないのであろう。体を動かし、何かが起きている場面に飛び込んで考える、ということが性に合ってい様だ。
 別の考えもあるかもしれない。いくらデスクワークといわれる職業や学問領域であっても、必ず「現場」というのはあるとの意見も否定できない。「書斎の探偵」というのはあくまでも小説の世界の虚構でしかない。小説としては面白いかもしれないし、魅力は十分にあるけれど。
 「現場」は自分で見つけるしかない。「現場」を見つけられなければ発展はない。自分の思考を検証したり、思考の発端を見つけたりするのが「現場」という定義もある。或いは外部の刺激を受ける場所といえばいいのだろうか。
 「現場」とは人との対話であったり、データとの対話であったり、データが収集される観測器械を構築する場所であったり、観測機器を製作する場面であったりとさまざま。「現場」はそういった意味では無数にある。脳だけでは考察はできない。手足や口、五感を働かせることで「思い」は「思考」になり、「思想」になる可能性を持つのではないか。

 なお、以上の文章とは無関係なのだが、この番組のナレーターの久保田祐佳アナウンサーの語りと声の質、落ち着いた口調と抑揚は以前から気に入っている。


シクラメン

2020年03月26日 22時07分10秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★燃えつきし焔の形シクラメン      田川飛旅子
★シクラメン花のうれひを葉にわかち   久保田万太郎
★燃えるてふ白のあるなりシクラメン   芳野年茂恵

 シクラメンは別名を「篝火花(かがりびばな)」という。明治になって渡来した花で、当時の人は焔の姿を連想したらしい。確かに長く持つ花である。
 花の咲いている時期は長いにも拘わらず、燃え尽きる直前の明るさを思い出させる。それは直接焔の形、というのではなくどこか頼りない儚さを醸し出しているからである。細い茎がそんなイメージをもたらしてくれる。
 温室栽培でクリスマスの時期に盛んに店頭に並ぶが、もともとは春の花。白や赤や赤紫などの色があるが、どれもが陽にかざすと透けて見えて別の花のようになる。それが私にとっての魅力のひとつである。先端の雌蕊の白も魅力である。


横浜でもスーパーは混雑

2020年03月26日 18時18分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 私の用事が済んでから、近くの私鉄の駅で妻と待ち合わせ。いつものように3件のスーパーをまわり、買い物に付き合った。
 広い大きめの店、中規模ならびに小規模の店と順番に回る。店を出るたびに私の持つものは少しずつ重くなるのがいつものパターンである。

 最初のスーパーに入ったのが15時くらい。すでに店は混雑しており、レジの前にはそれぞれ10人以上が並んでいた。我が家はいつものとおり籠に4分の1程度の品物を購入したものの、他の客は籠からあふれ出るように購入していた。みな買いだめのようである。
 個人がいくら買いだめしてもそれは「買占め」とはならない。少しの不安で、家庭のやりくりの規模での買いだめでしかない。不安が少しでもあるとこの買いだめにあれこれいちゃもんをつけても意味はない。買いだめをする不安を解消するのは安心感と明るい見通ししかない。
 このスーパーでは、お米と袋入りのラーメンの棚が空になり、肉類がほとんど売れてしまっていた。

 次の中規模のスーパーはより駅に近いこともあり、ふだんから人は多い。野菜を籠に4分の1くらい買うためにレジに向ったら、各レジ15人くらいも並んでいた。このスーパーでは初めての経験であった。妻はすぐに購入をあきらめて、籠にいれたものを棚に戻した。ここら辺の執着心のないところがいかにも我が家らしいところかもしれない。

 3軒目の小さなスーパーもレジの前に10人ほど並んでいたが、レジ1台に割り振ると3人ほど。ここで一番たくさん購入。持参した袋で3つ分。この量が向こう5日分ほどのいつもの買い物の量。

 だが周囲がいろいろと買い急いでいるとついつられてしまいそうになる。パニックとはまではいかないが、買いだめの心理の一端を垣間見たような気がする。
 お年寄りの女性たちが「あなたも来たの?」などと会話をしながら、「なくなると心配だから」とお互いに競い合うように食材や菓子類を籠に放り込んでいく。こうなると買いだめをするつもりはなくとも買いだめをする知り合いにつられて購入してしまうのであろう。
 何事にも醒めている妻は、そのような心理とはいつも無縁。わが道を行っている。私の方が喧騒につられそうになってしまう。

 3件のスーパーをハシゴしてから、近くの広い公園でのんびりと3部咲きの桜を見、小さな喫茶店で一服してから帰宅。


天気は上々だが‥

2020年03月26日 12時17分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中の時間は特に何かをするわけでもないのに、あっという間に過ぎていく。本日も若干のメール作業やパソコン内の文書の整理をしているうちにもう正午を過ぎてしまった。
 所用があり、どうしても出かけなくてはいけない。金融機関をまわる必要もある。天気は上々なので、この季節、外に出ないというのはそもそももったいない。
 昼食が終わったらすぐにでも出かけなくてはいけない。

 昨日の都知事の会見後、夜間営業しているスーパーは買いだめのために店に行列が出来ているらしい。この先どうなることやら。


物言わぬは腹ふくるるわざなり

2020年03月25日 21時44分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 東京五輪はとりあえず延期になったものの、しかし決断があまりに遅い。何度でもいうが、撤退するならばその決断は早ければ早いほど傷は小さくできる。愚図愚図すればするほど、傷は深くなる。優柔不断と無能力・無責任は紙一重である。特に司令塔にいる人の優柔不断は多くの犠牲を出す。
 自ら決断して国際世論を動かすことなどとてもできないことがあらわになっている。

 ある意味では小池都知事が漏らした「ホッとした」は本音にも聞こえる。新コロナウィルスの状況がいよいよまずい方向になりかけていたために、これ以上オリンピックのために無理を重ねることの厳しさを感じていたのであろう。
 しかしタヌキである。新コロナの厳しい状況を発信するのが、「都民ファースト」であるはずなのだが、「オリンピックファースト」でしかなかった。それも「選手ファースト」でもなかった。政治家としてはとても評価できない、と思う。

 またこの政権は小池都知事とタッグを組んで非常事態宣言を出せると踏んでいるのか。自らの政治的野望にコロナもオリンピックも利用しつくそうとしている。

 再燃した森友疑惑=財務省「汚職」がうやむやになってはならない。安倍も麻生も再調査は拒否、よほどその疑惑を自覚しているのであろう。追求の手を緩めると「その恩を仇で返される」。
 魯迅に「水に落ちた犬を打つ」という言葉がある。「『フェアプレイ』は早すぎる」(1925)に出てくる。この犬は愛玩犬ではない。「走狗」「権力にしがみついて保身を図るもの」「権力におもねるもの」の謂いである。また「それらのものを操る権力者」と理解も出来る。
 このようなものが大手を振っていることはあまりに情けない。「物言わぬは腹ふくるるわざなり」である。おおいに「物言い」が必要である。

 


午後は何となく‥

2020年03月25日 19時37分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午後は読書タイム、といってもベッドで横になりながらの読書だったので、ときどきうつらうつらしていた。昨日の作業はそれなりに集中したので、疲れた。一人での作業というのは根を詰めるし、つい長時間休みなしでこなしてしまうのが、良くない。

 現役時代も日曜出勤して一人で集中して仕事をするととても疲れたことを思い出した。通常の4時間の作業の倍以上の成果はあるが、疲労は3倍近かったのではないだろうか。月曜の出勤がことのほかつらかった記憶がよみがえってきた。やはり時間外勤務というのは良くない。

 さらに昨日のワイン、それなりに効いた。飲みすぎたという認識は皆無なのだが、普段あまり飲まないお酒だったので、気がつかずに飲みすぎていたのかもしれない。

 外出自粛、というよりも外出しても行くところがないと体を動かさないでストレスが溜まる。ウォーキングなど外で体を動かすことにさらに自覚的にならないといけない。

 


「さくら」の時期は忙しい

2020年03月25日 15時12分35秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 昼前に親の付き添いで近くの病院に出向いた。昨日とは違って風もなく穏やかな日和。とても暖かい。帰りは着ていった上着を脱いで歩いた。

★花の昼動く歩道を大股に        佐々木峻

 なかなか面白い句だと思う。川柳的な要素もある。
 花見でごった返している桜の並木を遠望できる「動く歩道」、その動く歩道からも桜を見ようと多くの人が桜の見える方向を見ている。そこの人混みを縫うように足早にすり抜けていくサラリーマン諸氏。年度末か年度初め、仕事は慌ただしい。
 花に目を奪われている人間からすると、何と無粋で、しかも危ない歩き方に見えるのであろう。もう少し心のゆとりを持てよ、などといってしまいたくなる。しかしそういう人も明日になれば、人混みをかき分けて仕事の時間に合わせて走り回る羽目になるのだ。
 ここで詠まれている「大股の人」にとっては忠告を受ければ受けるほどに、イライラして「それどころではないわい」と余計にストレスをためてしまう。電子メールが飛び交い、テレワークが増えようとも、人びとの動きは際限なく複雑に早くなる。どこかでこの人のようにコマネズミのように動かなければ、仕事は完結しない仕組みになっている。この人ほどの被害者はいないのである。
 こんな言い方もある。「急ぐときほどゆっくり歩く」これが「成功」するサラリーマンなのだそうである。だがこのゆっくり歩く人も、この大股で急ぐ人がいなければ「ゆっくり歩く」ことができないということを忘れては、人の上には立てない。
 この作者は「桜嫌い天皇嫌いで御所抜ける」という句も作っているという。なかなかに忙しい人なのだろうか。

 何とも忙しい世の中になったものであることか。いやいや江戸の昔から忙しい人はいたのだろう。いつもかわらぬ世の中である。


桜の季節 Ⅱ

2020年03月24日 23時46分12秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 それなりに冷えてきたような気がする。明日・明後日は特に予定が入ってはいなかった。久しぶりに外で呑んだので、明日・明後日は自重して外出は控えるのも悪くないかもしれない。
  先週は確かに私の具合があまりよくなくて、家に閉じこもっていた。ここ数日ウォーキングの歩数も少ない。
 妻と話をしていて、今年も墓参りの予定を立てていなかった。毎年この時期に花見を兼ねて出かけていたけれど、今年は難しい。来年はどうだろうか。

★うつむいて歩けば桜盛りなり      野坂昭如

 脳梗塞で倒れたあとの野坂昭如はお酒を断っていた。この句が記された日の前日に「歩いてきた分、帰らなければならない。帰りは桜を観るゆとりもなく、ひたすら地面を見て歩くのみ。」という記述があるとのこと。神田川沿いの桜を見ての帰りのことを記述しているらしい。不自由な体を押して、それでも桜を見に行きたかったのであろう。
 行きは上を向いて桜を目にしながら歩いたはずである。だが句となったのは桜が視界から消えて地面を見ているときに浮かんだ可能性がある。桜にかぎらず記憶に残る景色は、それを見ているときよりも、見えなくなった時、見ようとしなくなってから、より鮮明に思い出される。そんな記憶は私にもある。
 そして野坂昭如はその日記の最期に「この国に、戦前がひたひたと迫っていることは確かだろう」とつづった。野坂昭如が体験し、見た戦争と戦後は晩年になればなるほどよりリアルに見えてきたのではないか。


充実した5時間

2020年03月24日 22時10分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 先ほどまで横浜駅の近くの中華料理店で学生時代の友人と3人で楽しい時間を過ごした。3人とも理系、物理学と地質学。
 話は天文学から身近な河川の流路や考古学、そして新型コロナウィルスなど生物学までいろいろと飛躍する。理系の世界とはもう45年以上も離れている私には難しい話もある。同時に新鮮な世界、懐かしい世界が眼前に浮かんでくる。

 この友人関係はとても刺激的でうれしい。手放したくない。

 帰りは久しぶりにバスに乗車。


作業がつらくなってきた

2020年03月24日 21時53分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 10時から14時過ぎまで組合の会館で封入れの作業。130通の封筒に書類2枚を三つ折りにして入れるだけなので、当初一人で1時間半で終わるかと思っていたら、見通しが甘すぎた。たっぷり4時間の作業終了後は肩が凝ってつらかった。昨日に少しだけ手伝ってもらうなり、1名くらい応援を依頼すればよかったと反省。
 このような作業を一人で黙々とこなすと、だんだん内向きな思考に陥ってしまう。精神的には危険な作業である。130人は今年の退職予定の組合員で、退職者会への勧誘の一環である。目的があるので、張り合いがある。だから一人でも耐えられる。これが目的や獲得目標があいまいであると耐えられなくなる。人というのは微妙なところで精神の平衡を保っていると実感するのが、この種の作業である。
 自分たちの思いをビラにして、一枚一枚封筒に入れて送付する作業を18歳の頃から丸50年も続けてきた。18歳の頃はまだ楽だった。ビラの大半は翌日に大学の構内で配布をすれば30分もしないうちに2千枚以上は皆手にとってくれた。封入れは100枚程度で済んだ。
 20代前半に勤めてからは点在する職場向けに1000枚を、30部×30組と、1枚ずつ100部を作って配布した。
 30歳のころ、「俺は一生この種の作業から抜けられないのか」と思って挫折しかかったこともある。だが、不思議なもので40歳近くになったらこの種の作業がとても愛おしく感じるようになった。この種の作業が苦にならなくなった。
 しかし70歳の声を聞くようになると、ふたたびつらいと思うようになった。歳には勝てないと実感している。


「花を奉る」(石牟礼道子)

2020年03月23日 21時54分39秒 | 俳句・短歌・詩等関連



 こんな詩がある。石牟礼道子と藤原新也の対談「なみだふるはな」(河出文庫)をたまたま書店で見つけた。条件反射のようにその場ですぐに購入。
 まだあの大震災が起きたばかりで、状況も正確には把握できない厳しい状況下の2011年6月13日~15日までの3日間の両者の対談を収めてある。その巻頭に二人の文章が載っている。
 解説は伊藤比呂美の「死を想う」。

   花を奉る      石牟礼道子

春風萌(きざ)すといども われら人類の劫塵(ごうじん)
いまや累(かさ)なりて 三界いわん方なく昏し
まなこを沈めてわずかに日々を忍ぶに なにに誘(いざな)わるるにや
虚空はるかに 一連の花 まさに咲(ひら)かんとするを聴く
ひとひらの花弁 彼方に身じろぐを まぼろしの如くに視(み)れば
常世なる仄明りとは あかつきの蓮沼にゆるる蕾のごとくして
世々の悲願をあらわせり
この一輪を拝受して 寄る辺なき今日の魂に奉らんとす
花や何 ひとそれぞれの 涙のしずくに洗われて 咲きいずるなり
花やまた何 亡き人を偲ぶよすがを探さんとするに
声に出(いだ)せぬ胸底の想いあり
そをとりて花とはし 未灯りにせんとや願う
灯らんとして消ゆる言の葉といえども
いずれ冥途の風の中にて おのおのひとりゆくときの
花あかりなるを
この世のえにしといい 無縁ともいう
その境界にありて ただ夢のごとくなるも 花
かえりみれば まなうらにあるものたちの御形(おんかたち)
かりそめの姿なれども おろそかならず
ゆえにわれら この空しきを礼拝す
然(しか)して空しとは云わず
現世はいよいよ 地獄とやいわん
虚無とやいわん
ただ滅亡の世せまるを待つのみか
ここにおいて われらなお
地上にひらく一輪の花の力を念じて 合掌す
               二〇一一年四月 大震災の翌月に

 藤原新也は巻頭に「ふたつの歴史にかかる橋」を書いている。

 ふたつの歴史にかかる橋     藤原新也

一九五〇年代を発端とするミナマタ。
そして二〇一一年のフクシマ。
このふたつの東西の土地は六十年の時を経ていま、共震している。

効率を先んじ安全を怠った企業運営の破綻。
その結果、長年に渡って危機にさらされた普通の人々の生活と命。
情報を隠蔽し、
さらに国民を危機に陥れた政府と企業。
罪なき動物たちの犠牲。
母なる海の汚染。

歴史は繰り返す、という言葉をこれほど鮮明に再現した例は稀有だろう。
そのふたつの歴史にかかる橋をミナマタの証言者、
石牟礼道子さんと渡ってみたいと思った。

 解説「死を想う」で伊藤比呂美は、

「石牟礼さんは、聖者というよりは詩人である。しかしながら、幻影(俗)と覚醒(聖)、そのふたつの岸にかかる細い強靭な綱をしっかりとした足取りで渡って歩きながら正気を保っていたのが石牟礼さんだったのかなと思う。そして藤原さんもまた、ここでは石牟礼さんに伴奏しながら、八〇年前のリアルから二〇一一年のリアルに、二つの岸にかかる命綱を渡り歩きながら正気を保っている聖者みたいな存在に思えた」

と記している。

 肝心の二人の対談にはまだ眼をとおしていないが、早く目をとおしたい本である。
 


外出自粛を考慮することなく・・

2020年03月23日 18時27分35秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 17時過ぎに帰宅。会議と作業終了後の懇親会は少人数でおこなっているようだが、私は本日は初めて参加せずに帰宅した。
 全体の作業と会議は終了したものの、私の担当の分の作業が少しばかり残った。他の方に手伝ってもらうことも考えたが、本日はくたびれたし、一端自宅に戻って資料を打ち出す作業が必要であった。ということで、明日午前中に再度組合の会館に行くことにした。昼前には終わるはず。
 明日、15時からは学生時代の友人と横浜駅近辺で落ち合う予定。地下街や人が集中すところを避けて3人でゆったりと話が出来るところがないだろうか。

 血圧がなかなか思うように安定しない。先ほど帰宅後30分位安静にして測定したが高め。朝食後に薬を服用しており、一カ月前までは夕食前には基準値内に落ち着いていたのに、何が原因なのだろうか。

 まずは明日の午前中の作業のための資料の打ち出しを夕食前に終えたい。


会議と作業と

2020年03月23日 14時39分20秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

朝9時半から退職者会の幹事会の準備作業と会議と作業の連続。
ようやく最後の会議。
15時には終了予定。あと片付けが終わるのは15時半くらいと思われる。
早く帰宅したいと思うが許してもらえるだろうか。


スマホは新機種を更新

2020年03月22日 21時34分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 スマホは結局直さずに機種変更せざるを得なかった。修理に出すと2週間はかかり、その間の代替えの機種には電子マネーなどを入れることはでき無いとのこと。
 代替えの機種の再設定をするのも面倒であるし、溜まっているポイントを使うとほぼ新機種の値段に相当するとのことでもあり、思い切って新規機種にグレードアップした。もっとも最新式ではないが、スピードはかなり速い。

 しかし電子マネー3種はすぐには使えない。一週間かかるものもあった。毎回これでとても苦労する。だいたい5年に一度のことなので、再設定の仕方など忘れているし、5年経つと操作手順にも違いが出てくる。面倒なことこの上ない。

 昼前に家電量販店で新規機種にする手続きをしていたら14時になり、昼食を食べながらいくつかの設定を行ったが、うまく作動しないアプリもあり四苦八苦。ようやく電子マネー以外の設定を終えて、帰宅。
 ところがいろいろなアプリのダウンロードがまた出来なくなり、16時過ぎに今度はショップに直接持ち込み、動作のアドバイスを受けてようやく一段落。

 あとは少しずつアプリを再度ダウンロードして、わたしなりのカスタマイズをすることになる。すっかり草臥れてしまった。

 歩数計のこの3年間の記録は無くなった。電話帳は復元できた。あとはフリーメールの再設定とブログ・ツイッター・フェイスブックの再設定などの作業が残っている。

 忙しいときにこういうものが突然発生すると、パニックになってしまう。イライラが募る。本日は愚痴を言いながら、少しだけお酒を飲んで寝てしまいたい。新しいものを購入してもちっとも嬉しくない。


スマホが突然作動しなくなった

2020年03月22日 10時02分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩、寝る前にメールチェックをしていたら突然にスマホの動作がおかしくなった。アプリを「起動できません」という表示がつぎつぎに表れた。再起動したところ、完全に立ち上がラス途中でストップ。それを何回も繰り返してしまう。電池切れとなったところでようやくこの繰り返しがとまった。
 やむなく本日はこの修理を横浜駅の家電量販店の携帯コーナーに持ち込む。人の混雑するところはあまり近寄らないほうが良いのだが、今回はやむを得ない。人出の少ないうちに寄ってみることにした。
 いつもスマホが壊れるのは突然、何の前触れもなく毀れたり、電池が働かなくなったりする。そのたびに右往左往。スマホとパソコンが壊れると今やパニックである。もしも両方同時に壊れたら、何もできなくなる。回復のためのエネルギーの膨大さを考えると人生お手上げに近い。情けないが、本当のことである。
 せめて、必要なことは紙ベースで打ち出しておくしかない。

 朝目が覚めると、風の音に驚いた。9時前には瞬間最大風速15メートル、風の向きはほぼ南西らしい。南側のベランダ側の硝子戸に風がぶつかっている。本日の気温は22℃まで上がる予報。すでに10時には18℃を超えているようだ。4-5月の連休でもこんなに気温は高くないと思ったが‥。