Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「自省録」(マルクス・アウレリウス) 2

2020年10月17日 11時06分48秒 | 読書

 昨晩は「自省録」の第1巻の末尾と第2巻の後半を読んでみた。第2巻は興味深い記述がいくつかある。その中で古代ローマの人々の人生観がうかがい知れるものがあった。

「十三、なによりもみじめな人間は、‥隣人の心の中まで推量せんとしておきながら、しかも自分としては自己の内なるダイモーン(訳者神山美恵子は注で「理性、人間の内なる神的部分を表す」)の前に出てこれに真実に仕えさえすればよいのだということを自覚せぬ者である。」

「十四、たとえ君が三千年生きるとしても、いや三万年生きるとしても、記憶すべきはなんびとも現在生きている生涯以外の何ものをも失うことはないということ、またなんびとも今失おうとしている生涯以外の何ものもをも生きることはない、ということである。したがってもっとも長い一生ももっとも短い一生と同じことになる。なぜなら現在は万人にとって同じものであり、失われる時は瞬時にすぎぬように見える。なんぴとも過去や未来を失うことはできない。自分の持っていないものを、どうして奪われることがありえようか。‥第一に、万物は永遠の昔から同じ形をなし、同じ周期を反復している。‥百年みていようと、‥無限にわたって見ていようと、なんのちがいもないということ。第二にもっとも長命の者も、もっとも早死する者も、失うものは同じであるということ。なぜならば人が失いうるものは現在だけなのである。」

 後段の引用で興味をひくのは「万物は永遠の昔から同じ形をなし、同じ周期を反復している。」という個所。現代の私たちの認識とは違うと同時に、輪廻思想との親和性を私は感じた。

 マルクス・アウレリウスについても訳者による詳しい解説が巻末にある。西暦121年生まれで、前皇帝ピウスのあとを受けてローマ皇帝になったのは161年。死の180年に遠征先(現在のウィーン?)で伝染病のため58歳で没する。ストア派の哲学者でり、哲人皇帝といわれた。いわゆる五賢帝の最後。
 解説では、「在位中、仁政によって万人の敬愛を一身に集めていたので、死後一世紀の間多くの家では彼を家の守護神の一人として祀っていたという」と記されている。
 ローマ帝国でキリスト教が公認されたのは313年、当時はキリスト教は非公認で迫害されていた。マルクス・アウレリウスのキリスト教理解も皮相で本質は知るところがなかったようである。

 第12巻まであるうち第2巻まで読んだ限りでは、マルクス・アウレリウスという人、生涯にわたって極めて禁欲的・内省的で正義感の強い人格であったように感じる。普通はこのような人は人心を掌握してまとめ上げていくには、近寄りがたい存在になるものである。にもかかわらず、20年近く校庭の座を維持し抜いたということは、人心の掌握や組織運営、政治的な駆け引きにもたけていたことは間違いはないと思われる。「堅い」反面、魅力に富んだ人格だったと思われる。


桜紅葉

2020年10月16日 22時56分16秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 病院から横浜駅までは歩かずに私鉄を使った。足が痛くなければ紅葉の始まった樹でも探そうと思っていたが、それも叶わなかった。薄の穂も見ることがかなわなかった。桜紅葉なども病院までの道すがら探したものの眼につかなかった。
 探そうとする意欲が足りなかったのか、毎年桜を見ているとおりの桜もまだ色が変わっていなかった。

★桜紅葉これが最後のパスポート          山口紹子

 私も昨年パスポートを更新した。間違いなく最後の更新になると思った。5年でもいいが一応従来通り10年の更新である。作者は5年の申請にするか、10年にするか、ちょっとした葛藤があったのではないか。あるいはどこかで「もう一回あるかな」と思っているのだろう。
 それは都会の中では一番早く色がかわり、早めに葉を落す桜紅葉を冒頭に持ってきたところに表れていないか。私と違ってもう少し若い時の更新だと思う。年齢に対するちょっとした抵抗感・こだわりがなんとも言えず羨ましいと思った。その若さならば、もう一回の更新が必要になるかもしれない。
 ちょとした苦笑も感じられる。それは「これが」という話し言葉の存在である。この3音の語がいいアクセントだと思った。


「自省録」(マルクス・アウレリウス)

2020年10月16日 20時42分09秒 | 読書



 病院の帰りには横浜駅の地下街の書店に立ち寄ってみた。手にとってみたのが「自省録」(マルクス・アウレリウス、神谷美恵子訳、岩波文庫)。1956年初版で2007年に改版したもの。今年の7月に第23刷なので、売れているのであろう。
 この本、昔から幾度も書店で手にとって見たことがある。中学・高校の世界史の教科書や講義で著者のローマ皇帝マルクス・アウレリウスの名と著書の「自省録」のことは聞いていた。高校生・学生のころ、そして就職したころも書店で立ち読みはした。しかしいつも第1章の「祖父ウェールスからは、清廉と温和(を教えられた)。」「父に関しては‥」で購入するの辞めていた。
 本日訳が神谷美恵子であることをはじめて知り、そしてやはり一気読みとはならないものの購入してみることにした。

 立ち読みした時点で目についたのは第2章の、
「八、他人の魂の中に何が起っているいるか気をつけていないからといって、そのために不幸になる人はそうたやすく見られるものではない。しかし自分自身の魂のうごきを注意深く見守っていない人は必ず不幸になる。」
「九、‥宇宙の自然とはなんであるか。私の内なる自然とはなんであるか。後者は前者といかなる関係にあるか。それはいかなる全体のいかなる部分であるか。また君がつねに自然にかなうことをおこなったりいったりするのを妨げる者は一人もいないということ。」

 このようなアフォリズム的な文章というものは、あまりに一般化しすぎた言い方になると、自分の対立者にも言えるものであることが多い。しかもその時々の心境によって心に響いてくるものと響いてこないものがある。昨日は響かなくとも、本日共鳴できるものがあり、明日には「なんでこんなことに感激したんだろう」という思いが浮かぶこともしょっちゅうある。

 また当時のギリシャの人々がどのような思考をしていたか、わかる。多分われわれの思考と大差なく、いな、少なくとも私よりはずっと優れた思考力と洞察力を備えていたとおもっている。それを追体験することになる。むろん今の私にはとても理解できないこともあるはずだ。

 ときどきはめくってみるのもいいと思った。


毎月の宿題

2020年10月16日 13時37分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 

 午前中は、内科の医師に提出するこの一カ月の血圧の測定値をパソコンに打ち込んだ。手書き用にの紙の質の極めて良い立派なノートを渡されたが、私の殴り書きのような悪筆を見せるのもためらわれたので、エクセルで渡されたノートと同じようなものを作成して毎回渡している。
 本当は毎週1回はきちんと入力していれば、こんなに時間を使う必要はないのだが、つい後回しにしてしまう。小学生のころの夏休みの宿題と同じである。わかってはいても毎日、毎週というのは難しい。

 昨日は雨が降って寒かったが、本日は時どき陽が射していたものの空気が冷たく感じる。正午の気温が17.7℃となっていた。昨日よりも気温が低いようだ。
 長袖のポロシャツだけでは寒い。上着は何がいいか、戸惑っている。妻も出かけるにあたって何を着ていくか、悩んでいた。

 これより医者へ。


秋刀魚焼く

2020年10月15日 23時24分25秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 ほとんど雨が降り続いた本日の最高気温は10月下旬並みの20.3℃だったが、昨晩の日付が変わった頃の気温である。日中はもっと気温は低かったということになる。15時過ぎた頃から寒く感じるようになり、夜はひざ掛けを出してきた。
 オンライン講座の終了後にようやくチューハイを飲んでひと息。

 本日は結局外出することなく一日を過ごしてしまった。右足の甲のはそのためか、痛みはない。フットマッサージャーも左足だけにしている。

 明日は特に予定はないので、いつもの内科に降圧剤などの薬を処方してもらいに行くことにした。土曜日からの薬が無くなる。

 月曜日に今年初めて秋刀魚を口にした。2尾で500円という値であったらしい。少し小さめであった。私はまずは塩焼きで食べたいのだが、妻は塩焼きよりもショウガと醤油で煮付けるのが昔からの食べ方だったという。しかもグリルの掃除が大変、ということで私のリクエストは却下される。塩焼きは年に1度か2度程度である。とても悲しい。

★さんま焼くや煙突の影のびる頃          寺山修司
★七輪を出せこの秋刀魚俺が焼く          吉田汀史
★食べ方のきれいな男焼秋刀魚           二瓶洋子

 第1句、これは1960年代後半の東京ではあまり見かけなくなった光景ではないか。風呂屋の煙突も、大きな工場でも町工場でも煙突が希少、路地で七輪を使って秋刀魚を焼くこともほぼ見かけなくなった。秋刀魚は広い土地が無いともう焼けなくなっていた。アパートや公団の団地の台所で秋刀魚を焼けば消防車が出動しかねなかった。この句の背景には高校卒業の1954年までいた寺山の故郷青森での状況がベースと思われる。秋刀魚を焼く、ことと、煙突の影が伸びる、とがそれざれ単独では私も実際の体験としては持っている。だが、両方ともにというのは、既視感のあるようでいて、実際は映画やコミックで追体験しているようなどこかで作り上げた合成写真にも私には思えるのだが、いかがなものであろうか。
 第2句、私はこのようにして大胆にグリルで焼いてみたい。現在のグリルは煙もあまり出ないような造りなので、消防車がやってくることはまずない。しかし焼き方は人には任せられない、という自負はある。妻からは、その汚れたグリルの掃除もちゃんとしてよね、という怒りを含んだ声が聞こえてきそうである。
 第3句、私は秋刀魚全体に火が通ると、頭の部分を火の強いところに持って行って少し焦げるまで焼く。そうすると小さな秋刀魚は頭まで丸ごと食べることが出来る。
 結婚したころ、私が秋刀魚を焼いて頭と骨だけを綺麗に残して食べて、妻が驚いていた。きれいに食べる男の評価は、両極端に分かれるらしい。器用で食べ物を大切にするという評価と、その几帳面さに引いてしまうという評価と。
 それならば、と次の機会には、頭も少し余計に焼いて、頭からしっぽの先まですべて食べ尽くしてしまったら、呆れられた。そして「恐ろしい」という評価になってしまった。でもその食べ方を私はとても気に入っている。秋刀魚はすべてを食べ尽くすのが、「美味い」のである。


「美術の物語」第9章

2020年10月15日 18時59分00秒 | 読書

 夕方は、20時からの「美術の物語」の講読のオンライン講座に向けて、「美術の物語」(ゴンブリッチ)の第9章を読み、送信された資料を読んだ。
 第9章は「戦う教会 12世紀」という表題がついている。ノルマン人のイングランド上陸によってもたらされたロマネスク(ノルマン)様式の建築と壁のレリーフを中心に、儀式に使われる器物、装飾写本、ステンドグラスなどが取り上げられている。
 最後の段落が気になる。
「形について言えることは色についても言える。もはや画家たちは、実際に自然界に生じる色調のグラデーションを、研究し模倣しなければならないとは思わなかった。だから、彼らは絵に合わせてどんな色でも好きに選ぶとができた。金細工のあざやかな金と光沢のある青、そして、写本彩飾の強烈な色彩、さらには、ステンド・グラスの窓の燃えるような赤と深い緑。自然から独立した当時の名工たちが、その自由をみごとに生かしているのがわかる。自然界を模倣する義務から解き放たれたことによって、彼らは超自然の世界を表現できるようになったのである。」

 私は現代絵画論なのかとふと思ったが、果たして時間軸をどのように取ってこの段落を解釈したらいいのか、戸惑っている。


目の酷使

2020年10月15日 14時07分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 依頼されていた600字余りの文章をひとつ、ようやく作り上げた。当初は800字位を考えていたが、ゆとりのある割り付けでA4のおもて面で収めるために200字を削った。
 退職者会という組織を代表しての文章なので、語句ひとつひとつに気を配って書いた。このような文章というのは、書きづらい。
 午前中2時間もかけてしまったのは想定外。重複する、くどく、そして堅い言葉遣いを直しながらなんとか片付けたという印象である。
 内部向けの文章というのは、もうすでに思考回路が出来上がって身についている。しかし対外的な文章というのは、内部向けの思考だけでは通じないところもある。

 一応の形になったときは、すでに目がショボショボ。目の酷使である。これから30分ほどは目薬をして、目をつぶってタオルで温めることにした。


足の痛みに対処できるグッズ

2020年10月14日 23時06分07秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 飲み会に参加する前に、集合の店の近くの大規模スーパーに行き、右足の甲の痛み止めの液体の湿布薬を購入。塗り薬は同じようなものが安いもので300円、同じ量でも高いものでは1500円もする。驚くほど値段の差があった。昨日まで使っていたものは何年も前に一番安いものを購入したと思うので、今回は1000円ほどの商品を購入してみた。安いが効かない、高いから効く、ということはないと思うが、釈然とはしない買い物となった。
 さらに靴店をのぞき、「土踏まずが無い人向け」という敷皮を購入した。購入してすぐに運動靴に敷いてみた。歩くのには確かに楽ではあるが、つま先に少々体重がかかり過ぎているようにも思う。指先がもう少し高くなるようなものを貼り付けてみたい。現在かかっている整形外科の医師と相談してから決めたいと思う。
 自分の体の不具合なので、自分なりに努力をしてみたい。しかし本日も足の甲の痛みはひどい。敷皮をした直後は少しは楽にはなった。

 明日は出かける予定はない。夜にオンライン講座が控えている。資料と教科書の読み込みに力を注ぎたい。


楽しい飲み会

2020年10月14日 22時20分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は楽しく、なおかつ安く飲むことが出来た。馬車道の居酒屋よりも半分の値段で楽しい会話で2時間半を過ごした。しかもとてもおいしい料理であった。初めての店であったが、仲間は定期的に集っている。今度から月に一度の会に誘ってもらえることになった。
 特にうれしかったのは、私の長年在籍した職場に現在配属されている方と話すことが出来たこと。なつかしい仕事の話、地域の話、仲間の消息などなど話の種は尽きなかった。

 こんな楽しい時間は退職後初めてのような気がする。来週にはその職場に顔を出したいと追う。来年度には新しい庁舎に移転してしまうので、今のうちに当時の面影の残っている庁舎の写真を撮影しておきたい。私が23歳で採用直後に開設した庁舎である。以来32年間そこで務めた。
 時代状況に合わせて配置換えや模様替えをしたり、新しい備品の格納に知恵を絞り、人員の増減に合わせて机の配置を変えた職場は、今でも懐かしく愛着がある。今現在働いている人に迷惑が掛からないようにそっと覗きに行きたいと切実に思った。


秋茄子

2020年10月14日 13時55分20秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 本日の作業は、昨日の講演会の報告記事を作成、その他小さな囲み記事をひとつ、記事の分量に合わせて、割り付けの微調整。いつの間にか昼になってしまった。

 これより、作成依頼のあった文章をひとつ。その後は下駄箱の扉の修理を頼まれている。WiFiの私の部屋の配線は本日は断念。

 茄子の浅漬けを食べたいとリクエストをしたくなった本日、秋茄子の句を探してみた。

★秋茄子を割れば放心の白さ       瀬戸優理子
★その尻をきゆつと曲げたる秋茄子    清崎敏郎

 第1句、茄子の紫の色は見飽きない。包丁をいれようとしても躊躇することもある。そして割ってみるとそのたびに中の白さにハッとする。茄子を切ると他の雑念は忘れて茄子を観察することと、調理することに集中する。他のことを考えながら料理をしては失敗する。茄子はそのことを教えてくれる。ことに秋の茄子の色とみずみずしさは得難い。

 


安くて量があるツマミ

2020年10月13日 23時49分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 退職者会で本日の講演会に参加した会員の内8人で、横浜の馬車道の居酒屋に繰り出した。広い店なので12人ほどのスペースに陣取って楽しく会食。ビールとハイボールに加えて、久しぶりに美味しい日本酒も1合飲んでしまった。
 最近皆がはまっているのが、ゴボウのから揚げ。店によってゴボウの厚みがいろいろある上に、味付けの違いも楽しみの一つになっている。安いツマミなので、必ずと言っていいほど一致して注文する。本日のゴボウはゴボウの味がしっかりとしていて、好評であった。
 店にとってはあまり儲けにはならないかもしれないが、退職後のオジサン立ちにとっては安くて量があって歯触りがいいツマミほどありがたいものはない。

 本日はこれにて就寝。


WiFiルーターの移設完了

2020年10月13日 17時29分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 LANケーブルを2本購入後、時間があったのでいったん帰宅。WiFiルーターの移設をどうやら完了。
 これまで使っていたLANケーブルよりもかなり太くなり、壁に差し込んだ20ミリのパイプを端子がなかなか通らず苦労した。24ミリにすればよかったかもしれないが、電動ドリルの先の値段が1000円ほどは高くなってしまう。
 さらにケーブルが太いので配線するにあたった角などの小回りが不便。リビングルーム側の配線は本箱等で隠れるのだが、私の部屋の配線が見苦しい。こちらは明日以降見映えよくやり直すことにした。
 高速データ通信のためには進歩したケーブルなのだろうが、敗戦の融通は悪い。痛しかゆしといったところ。

 しかしどうやら移設が無事終了しホッとした。これより講演会の参加のために再度出かける。


編集作業と大工仕事・癌検診予約

2020年10月13日 14時20分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午前中は退職者会ニュースの原稿作成とWiFiルーターの位置変更のために壁に穴あけの作業。
 原稿作りは、おおよその形が出来上がると作業効率は上がる。不思議なものである。現時点での出来上がりまでを本日他の役員の意見を聞くことにした。
 壁に開ける穴は径20ミリ。穴あけとパイプ通しは予定より短時間で終了。

 さらに市民病院へ癌検診の予約電話。来年1月中旬に3か所の部位の検診をようやく予約できた。残り2か所の部位の検診は来週になってから再度電話することになった。なかなかの混雑である。

 これよりLANケーブル2本を購入しに外出。その足で18時からの講演会参加、友人との居酒屋。
 しかし右足の甲が痛いので、いつものように酔い覚ましを兼ねて歩いて帰るのは無理のようだ。


WiFi接続のやり直し

2020年10月12日 22時45分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 WiFiの電波がリビングルームに届きにくい。タブレットが「インターネットに接続していません」と表示を繰り返してしまう。電波の状況がいつも変動している。やむなく私の部屋に設置したルーターをリビングルームに移動することにした。そのためには仕切りの化粧板に穴をあけて、LANケーブル2本の配線が必要になった。
 本日は穴をあけるための道具とパイプを購入してきた。明日は、LANケーブルを購入し、明後日には穴あけと配線の作業の予定を立てた。

 なかなかすぐには思うようには行かないものである。特に通信設備の配線は苦手なのでやり始めるまでにエネルギーが必要である。

 明日の夜は、佐高信の講演会と終了後にいつものように参加した友人との懇親会がある。本日も早めに就寝としたい。


人の意見をきくということ

2020年10月12日 21時16分46秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 前政権で強引に、そして国会での議論もほとんど行われずに始まった「GoToトラベル」だとか「GoToイート」だとかと言われる「経済回復事業」。今さらながらいいろな制度矛盾が指摘され、補助額の変更など制度が揺らいでおり、迷走をはじめている。

 私は、今のところ利用する予定もなく、「そら見たことか」と思いながら、冷ややかに眺めている。前政権も、今の政権も、国会でいろいろな観点からの批判や制度の不備についての洗礼を受けようとしてこなかった。どんなものでも端から完璧なものなどあり得ない。しかも1億人を対象とした事業である。
 自分の企画や意見について、どんな場合でもさまざまな観点からの指摘や意見を受けてより良いものになっていくことを多くの人間が知っている。私のこれまでの経験側から言えば、自分の意見に自信が無かったり、人の意見を聞くゆとりの無い人ほど、自分の意見に固執してしまう。
 そのような人が会社などの組織の上に立つとボトムアップなどとてもできない。常にトップダウンで物事を決めようとするものである。
 どんな優秀な官僚でも、政府の構成員であっても、始めから完璧なものなど出来ない。何故に国会できちんと議論を尽くそうとしてなかったのか、事業そのものについての反対者の意見でも取り入れるものがあれば軌道修正して、少しでも完璧なものに近づける努力をするのが民主的な手続きである。
 独裁というのは、批判者の意見を真摯に考慮するゆとりのない政治家が、自分の判断だけで政策を実行しようとする場合に生ずる形態であると私は思う。そして人の意見を聞こうとしない人間というのは、底の浅い人間、自分の意見だけが正しいと思い込んでいる。常日頃から人の意見を聞くゆとりも度量もないものである。
 知識の量が多いとか少ないとかいうのではない。いろいろな観点・視点からものごとを見る能力の有無が人の価値を決めるのである。そのような人が政治家として政治のかじ取りをしてもらいたいと思う。

 現在の日本の政治の悲劇は、そのようにして鍛えられてきた人間が、集団の差配をしていないことだと思う。
 日本の企業のブラック度が批判されているが、多くの人が身近な組織である企業などの職場で、今の政治の縮図が横行してるために、それが当たり前になってしまっている。政治の在り様はそのことの反映ではないのか。