本日は気が付いてみれば、リュックに入れておいた本は開かずにそのまま入れっぱなし。帰宅してからもボーッとしているうちにリビングルームでうつらうつら。読書タイムは皆無であった。
眠気を覚まそうと15分ほどのウォーキングをしてきた。雲がほとんど空を覆い、月齢18.5の寝待月が一瞬雲の切れ間から顔を出すのに遭遇した。家を出てすぐに見たのだが、家に着くまでに再び月を拝むことはなかった。
本日から涼しくなるとのことであった。確かに24.5℃と昨日より5.4℃も低かった。夕方に長袖、そしてジーパンで外に出たときは、暑苦しく感じた。
今のウォーキングも長袖、長ズボンでやはり少し暑苦しかった。まだ半袖の人の姿が多い。明日の最高気温は24℃の予報。ジーパンは致し方ないとしても、上は半袖のほうがいいようだ。
台風16号の進路が気になる。
用事が終了し、20時半過ぎに横浜駅近くで食事を使用としたが、どこもしまっていた。そして人通りもなく、昼間よりもずっと寂しい。確かに緊急事態宣言下ではこの時間はお店はやっていないことに今更ながら気が付いた。昨年の4月以降の約1年半もの間、夜にお店を探すことはなかった。やむなく家に帰ってインスタントの味噌汁とお粥の残りを食べた。
ここ2~3日、仮の歯を入れてから、頬の内側の肉を噛んでしまい、うまく咀嚼できないので、流動食にちかい食事をしていた。本日も食堂でスープ用のものを注文するつもりであったが、帰宅したほうが良かったのかもしれない。
少しずつ噛めるようにはなっているが、まだまだ硬いものは無理のようだ。
しかし横浜駅界隈をはじめ、どこの駅のそばでもこの1年半は20時以降の様子を見ることがなかったことにあらためて驚いた。この1年半の20時以降は、住んでいる住宅地の周辺しか知らなかった。こんな「健康的」な生活をしていたのか、と不思議な気分である。
「写真で見るコロナ禍の退職者会活動 この1年」という題にした、A4の台紙8枚に写真40枚を貼り付けたものが一応完成。
これから他の役員と協議の上確定予定。10月中旬の作品展に特別展示とするらしい。模造紙で2枚分くらいであろうか。
パネルは揃っているはずである。レイアウトは作品展の運営委員会におまかせするしかない。まだ未完成の扱いなので、確定次第精細モードでの印刷にする予定。
本日はこれより打合せに出かける。夜の開催のため、外食となる。
夜に予定していた作業もひと段落し、夜のウォーキングに出かけた。一部西の空に少しだけ夜空が顔を出している個所があるほかは、ほぼ全天曇っており、星も月も見つけることはできなかった。
横浜では警報も注意報も出ていないが、お隣の川崎市域には大雨(浸水)警報と大雨(土砂)・洪水注意報が出ていて、びっくり。レーダーの画面を見ると横浜市青葉区でも強い雨の区域が移動していった。横浜でも警報ないし注意報が出ていたのかもしれない。メールの配信はなかった。私の住んでいる地域では雨は降っていない。
明日は曇空で、北東から雲が移動してくるとの天気予報であった。そして最高気温が25℃の予想、本日(29.9℃)よりも5℃も低い。
明け方には雨も降る予想になっているが、日中は晴れ間も出るようだ。
「大岡信 架橋する詩人」(大井浩一、岩波新書)を読了。終章に以下のような文章が並んでいた。大岡信の戦後の詩史、文学史、文化史、思想史できわだっていることとして、
「一つ目は詩作にしろ散文にしろ、言葉の選択が明晰で、表現として個性的な輝きを放っていること。二つ目に、批評の面で通時的にも共時的にも、すなわち古今の歴史の流れにおいても同時代の芸術文化諸ジャンルの平面においても、見通しがよく利き、バランスの取れた把握ができること。三つ目は、‥創造的な行為の本質を他者に開かれたダイナミックな営みとして捉え、またそのような創造の実践に努めたこと――である。総じてこれらの特徴は、人間への信頼と、未来への肯定的な姿勢を彼の作品にもたらした。」
「東西冷戦下の80年代においては同じ消費社会を論じた話題作でも山崎正和の「柔らかい個人主義の誕生」以上に吉本隆明の「マス・イメージ論」が読まれていた印象が私にはある。」
「さまざまな主義主張を持つ人々と付き合う際、大岡はある方針を立てていたように推測される。個々人のどのような考えにも、「教条」に陥らない限りは耳を傾ける、というものだ。たてえ党派性の強い人間であっても、その人が生み出す文学、芸術の創作物のうち「教条的でない部分」に目を注ぎ、評価しようと務めたように見える。要するに、世に生きて何らかの政治性を帯びない者などいないのだが、創造的活動に対しては、政治性ではなく、その文学性、芸術性で価値判断するという至極まっとうな態度である。しかし特に1950~70年代の「政治の季節」において、それは言うは易く行うのは困難な道筋であったにちがいない。」
最後に引用した個所は、言わずもがな、とは思うが、一応私の日ごろの振舞いの基本でもあるので、とりあえず記しておくことにした。ただし、「「教条」に陥らない限りは耳を傾ける」だけでなく、「国家や宗教を前提とせず、自分の生活の部分から世の中を見据え、自分の頭で考えようとしている限りは耳を傾ける」というのが私の思いである。
ぎっくり腰の症状はかなり改善された。特にここ2~3日は朝起床時以外は痛みを自覚することはなくなった。そして本日の朝は、ベッドから起き上がるときに壁に手をつかずに起き上がることができた。
このまま筋肉のこわばりが再発せず、昼間も意識しない日が続くと日常が取り戻せる。今回はそれなりに時間がかかった。病院にも行かず、痛み止めも飲まず、塗り薬だけで何とか回復できた。
午前中は、退職者会の作品展に出す「この一年の会の活動」の写真を整理。必要な写真の半分ほどをピックアップできた。残りは今晩。
これよりいつものとおりウォーキングに出かけて、喫茶店で読書タイム。「大岡信 架橋する詩人」の終章を読む予定。時間が余れば、「古代文明と星空の謎」の残りを読む予定。
手間のかかったサイフォンで淹れたおいしいコーヒーを飲む予定にしていたら、妻から全国展開の安売りの喫茶店のチケットをもらってしまった。9月いっぱいが有効期限ということで、これを使わされることに‥。
本日は全国的な秋分の日ということで祝日であった。15時過ぎに百円ショップで買おうとして忘れていたものを購入しに行ったのだが、地下街の人出の多さに私はキョトンとしていた。本日が休みの日だと思い出したのは、百円ショップのカレンダー売り場のカレンダーを見たとき。我ながら迂闊である。毎日が休日なので、スケジュール帳で休日の表示をしていても、気にしなくなっている。
百円ショップには目的のものはなく、家電量販店の文具売り場でようやく目当てのものを見つけて購入した。
ウォーキングがてら横浜駅まで行ったので、喫茶店で一服。本日は暑かったものの、湿度は低く、外のテーブル席でアイスコーヒー1杯。コーヒー代が余計な出費と言われそうであるが、ここで45分ほどの充実した読書タイム。
明日は晴れるが、気温は本日よりも低く、30℃には届かないらしい。ウォーキングは楽になる。7月・8月とその前の月の半分ほどにしていた。ここ数年いつも夏になると体調を崩すので、あまり無理はしないことにした。つい無理をしてしまう癖そのものを無くさないといけない。
暑さ寒さも彼岸まで、というが、これまでにも10月に真夏日を観測した年が幾度かあるらしい。
明日は妻も所用があり、昼前には出かける。さて、どのように羽をのばすか。結局いつものとおり、歩いて横浜駅または他のJRの駅、または神奈川大学を傍を通っていくつか先の私鉄の駅まで歩いて喫茶店に入ることくらいしか思い浮かばない。
貧困な行動パターンしか持ち合わせがない。悲しいものである。
著者は、大岡信の文章を多く引用している。
「遊びと見え、戯れと見えるものが、じつは精妙に練り上げられた秩序ある構造をもっとている場合、そこに投入されたおびただしい時間と精力と忘我の恍惚境とを思いみる必要がある。それは、強いられた無為の時をみずからのものとして奪いかえし、堅固な秩序を貫徹しようとする意志的な現れにほかならず、現実の秩序からはじき出されている痛覚を創造的に転換する自由実現の場にほかならなかった。そういう意味では、贈答歌の「うたげ」的な華麗さ、軽薄とみえるまでの奇想、パズル的な眩惑を生みだしているものは、現実への抵抗によって活力を与えられている充実した「弧心」にほかならないといえるだろう。」(「うたげと弧心」の「贈答と機智と奇想」の章からの引用。第4章「「唱和」のよろこび」)
「目覚ましい「連詩の国際化」だが、この集団制作については日本でも全ての詩人がもろ手を挙げて歓迎したわけではない。むしろ冷ややかに見る人も少なくなかった。「他人が見ている前で詩を作る」という「近代以降の詩作の一般的なあり方である密室の孤独な力わざとは、ずいぶん異質な要素」(大岡信「連詩の愉しみ」)を持つためでもあった。また完成し、発表された連詩を観賞しようとする読者にとって、ある詩から次の詩へのつながりが決して分かりやすい、読みやすいものばかりではないという「作品」としての難解さもある。」(第4章「「唱和」のよろこび」)
そして私が大岡信について、注目し、関心を持っていたことについて以下のようにまとめている。この個所はとても大切な部分だと私は思っている。この本を読んだ収穫は、私がこれまで断片的に大岡信の著作でほのかに覚えていたことをここにまとめてくれたことである。
「(「ヘルメス」の「創刊二周年祈念別巻」で)大岡信は「日本的なるものに対してはどうしてもなじめない」のが、自分や武光徹ら同世代に共通する感覚だと述べ、こう続ける。「いまでも僕はぜんぜんなじめないわけで、日本というものを極力相対化したいと思って、そのためには日本のものを扱わなければならないと思うから、和歌とか俳諧とか、そういうものに関心を持っているわけです。‥‥そういう意味では、自分は戦後すぐの時期にヨーロッパやアメリカに憧れたという、あの時代の雰囲気を持ち続けちゃっている‥‥‥むしろ日本的な美意識を相対化することによってしか生きていけないと思うから、その自覚によって一連の仕事をしてきている。」見逃せない自己分析だと思える。なぜなら、『紀貫之』以降、古典詩歌論に力を注いだことによって大岡は「日本回帰」をしたというふうに、しばしばみられてきたからだ。しかし、一連の仕事はむしろ日本的な美意識の相対化のためだったというのである。」(第4章「「唱和」のよろこび」)
「彼ら(60年代詩人)に比べると、大岡は「社会的なもの」を生のまま作品化することに新調だった。だが、この発言は逆からいえば、自分は社会的な問題に深く関心を寄せつつ、それを詩の中に安易に(方法の追求なしに)持ち込むことを厳しく戒めていた、ということになるのではないか。」(第4章「「唱和」のよろこび」)
このところ日記風の内容ばかりであるが、ご容赦を。それが今の私の現状。コロナ禍のマイナスの余波かもしれない、と本日も他人事のようなつぶやきから。
昨晩は久しぶりに宵の明星を見て、何となくウキウキ。そして夕ご飯には舞茸と揚げの炊き込みご飯を作ってくれた。とても美味しく食べた。秋の気分を満喫。いくつかの舞茸を残しておいて、それをつまみに食後のウィスキーを多めに飲んでさらにご満悦。
さらに、寝る前にも茹でて皮をむいてあった栗3個を台所で見つけて、食べてしまった。普段は栗ご飯以外栗はあまり食べない。そのためこれは妻が自分で食べるために隠しておいた栗だったようだ。食べ物の恨みは怖い。年内は嫌味を言われそうである。
午前中は俳句12句の清書のやり直し。4頁に分けたものを3頁にし、前書きを少し手直し。ようやく落ち着いた。これは明日にでも組合の会館に持参予定。
夜になってから風が強くなってきた。号棟の南側のケヤキの木の枝が風に大きくあおられている。月をベランダから眺めていた妻が、西の空で稲光がした、といって慌てて部屋に戻ってきた。私も確かめにベランダに出たら、雷鳴もあった。不気味な風である。
明日は横浜も32℃の予想。ただし湿度は午後は低いとのこと。降水確率も今晩から明日の明け方までは降水確率20%。実は本日の昼間も一時的に弱い雨が降った。ちょうど伊勢佐木町の近くを歩いているときであった。現像した写真が入っているので、慌ててザックカバーをしてしのいだ。カバーがしっかりしているので、傘はささずにそのまま15分ほど歩いた。写真は雨にはまったく濡れずに済んだ。
降水確率が20%と低くとも、無視するわけにも行かない。
本日も読書の時間を持つことができなかった。明日は何とか、読書時間を確保したいものである。
この1年半、美術館もすっかりご無沙汰。美術展の感想も記載できず、ストレスが溜まっている。この3週間は読書もままならず、さらにイライラがつのっている。
以前にも記載したが、どうも観覧予約制という美術展が気に入らない。特に理由がないが、「行きたいときに行く」というスタンスから抜けきれないのである。わがままといえばわがままであるが、予約しても気分がのらないときに観覧するのは避けたいのである。感性が鈍っているときは何を見ても感動しない。見落としも多い。
午前中から退職者会の作品展に出品する私の作品のディスプレイ作業。といっても私一人での作業。作業は10月に入ってからでも十分間に合うのだが、ニュースの概要の作成もしなくてはいけないので、先行的に行っている。
写真については11枚一組で「秋」をテーマにしたもの。模造紙半分の面積に2Lサイズ11枚と表題がうまいことはまり込んでくれた。
俳句12句は、B5の用紙に4枚に印刷したが、工夫次第で3枚に収められそうである。これは再度努力する必要がある。
この作業が終了してから、「写真で見る退職者会の一年の活動記録」に着手することにした。
18時半近くになって帰宅。団地の西の出入口からはいつも富士山と丹沢を染める夕陽を眺めながら帰宅する。しかしここ数年、いつも北側ないし東側の出入り口から団地に戻ってくるので、夕陽を拝むことは少なくなった。
久しぶりに太陽が沈んだ直後に通りかかった。金星=宵の明星が美しかった。太陽が沈んだ真上あたりにうしかい座の一等星アルクトゥールスが輝き、金星と対になって美しい。水星も見えるはずだったが西の空の低い雲に隠れて見つけることはできなかった。写真を撮るのを忘れて見とれていた。
昨日の天気予報に反して、中秋の名月はなかなかいい具合に見えた。雲がまったく無いよりは、この程度の雲があったほうがずっと見ごたえがある。
とはいえ、多くの人が愛でる月にはそっぽを向きたくなる偏屈の虫が腹の中、否、頭の中で騒いでいる。その虫を抑え込みながら、しばらくは静かに月を眺めていた。
月というものを自覚的に眺めるようになったのはいつの頃だったか。小学生の頃から親しんできた子供向けの科学図鑑による月の満ち欠けなどを日を追って観測するということもしなかった。中学生の時に小さな望遠鏡を手にして月や木星・土星・火星を眺めたがあまり感動しなかった。二重星を視野に入れることばかりを追求していた。
中学生時代からよく理解できないまま新古今集の和歌に現れる月の和歌の世界は魅力があるように思っていた。
★梅の花たが袖ふれしにほひぞと春や昔の月にとはばや 源道具
★ふくるまでながむればこそかなしけれ思ひもいれじ秋の夜の月 式子内親王
★秋とだにわすれんと思ふ月かげをさもあやにくにうつ衣かな 藤原定家
★ひとめ身し野辺のけしきはうらがれてつゆのよすがに宿る月かな 寂蓮法師
★夏かりの蘆のかり寝もてあはれなり玉江の月のてけがたの空 藤原俊成
★入るかたはやさかなりける月かげを上の空にも待ちしよゐかな 紫式部
★月のゆく山に心をおくり入れてやみなるあとの身をいかにせん 西行法師
これらの歌、意味も今はもうすぐには分からなくなってしまった。当時の鉛筆の印だけを頼りに引用してみた。その印も、30代になって廃棄する直前の本から適度に転記した印なので、確かなことは覚えていない。どのように理解していたかも分からない。
しかしこの時の「月」も、夜にしみじみと内省的に眺める月という具体的な対象にはなっていなかった。観念の上で作り上げた「月を眺める」という行為を頭の中で作り上げていただけだと思う。
月に人類が降り立った1969年7月のアポロ11号の月面到着の時は確かにテレビを凝視していた。だが、それは月を眺めることの楽しみではなく、科学技術的な興味と、軍事技術の融合としての側面と、米ソ対立の政治的側面がいつも画面の裏側にはがれようもなく張り付いていることを強引に見せつけられるショーとして眺めていた。
本当にのんびりとしかも内省的に月を眺めるようになったのは、いつのことだったか。
20代の半ばを過ぎて、登山の途中のテント場で夜にひたすら星を眺めていた時に、初めて月に魅入られる、ということをちょっとだけ体験した。不思議なもので、満月を眺めているうちに、明け方4時に起きてテント場を発つ、ということを忘れて3時近くまで見入っていた。1時間の眠りで次の日に目いっぱい歩く自信がなくなり、夜明けを迎えた。その日は無人の山小屋でウィスキーのポケット瓶2本を飲みながら無為に過ごす羽目になった。休暇を伸ばすことができずに、縦走を途中から諦め、下山したのを覚えている。甲武信岳に登り損なった山行であった。
新古今集の時代の歌人たちは、月に魅入られても、月の周囲の景色には気をとられていない。月を縁にわが身の思いを述べているのである。月は観察の対象ではなく、自分の思いを述べる縁にすぎない。月という当時の歌人が持つべき観念をいろいろと趣向を変えて述べているにすぎないと、断定してしまうのはさびしいが、当たらずとも遠からずの指摘であろう。その観念のありようが私には未だに魅力的なのだが‥。
ということを書いているうちに、夜の散歩の時間となった。
朝からいろいろなところを駆けずり回って、だいぶくたびれた。さらに組合の会館に俳句と写真を持参したのだが、昨年まで台紙を立てかけていた俳句用のスタンドが無くなっていた。明日百円ショップで購入しに行かなければならなくなった。
そして写真もサイズが少し大きすぎたようで、一回り小さいサイズで現像のし直しをせざるを得なくなった。いろいろと面倒である。
久しぶりに夕方西の空を見ながら帰宅。もう少し遅いと宵の明星が見えたかもしれないが、それは後日の楽しみにして、疲れたので本日は早めに帰宅して一服することを優先。
明日は早めに家を出て、百円ショップと家電量販店前のコイン現像機を経由して組合の会館へ直行することにした。
本日は疲れたので情けないことに、もう読書の気力は失せた。明日は読書タイムを確保できるであろうか。