Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

新しいウォーキングシューズ

2021年09月05日 20時10分59秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 雨が朝から上がっていたので、久しぶりに横浜駅以外のJRの駅まで往復を歩いた。駅の傍にある大きな商業施設で運動靴を購入。これまでの運動靴にとうとう穴が開いてしまった。靴底ではなくて、左右それぞれ外側の指のあたりである。底に開いた穴ではないので、しばらくそれを無視して履いていたが、やはり歩きにくい。足が外側に傾いてしまう。
 ランニングシューズではなく、ウォーキング用のシューズを物色。税抜きで7200円、6400円、4900円の三種類のシリーズものがあった。同じスタイルだが、6400円のものはどれもが縫い目が雑で、下の生地が見えていた。さらにさすがに7200円の物ははき心地が良さそうであったが、財布と相談の結果4900円(税込み5390円)を購入。表面の布地が少なく、全体に硬めであった。履いているうちに足になじむだろうという希望的観測というか期待を込めて、硬めであることには目をつぶった。
 新しい靴に履き替えて、それを履いて帰宅。とりあえずは足に大きな違和感はなかった。布地ではないので、少し蒸れるかもしれないが、本日のところはそれは気にならなかった。昼間の晴れているときに長時間歩いてみないとはっきりしない。

 新しい靴を履いてウキウキとするには歳を取りすぎているし、さらに色も黒である。が、恥ずかしながらなんとなく心が軽くなるものである。

 


雨が続く

2021年09月04日 23時18分50秒 | 天気と自然災害

 雨の予報がしだいに長くなっている。初めはたしか今週の木曜日だけだったような気がするが、昨日・本日と伸び、本日の天気予報では明日日曜日からさらに月曜までも雨のマークがついている。雨の日が長く続くのは嫌なものである。今年は雨がしつこく長い。
 6日(月)の会議は8日(水)に延期となったのは、ありがたいが月曜まで雨が続くのは勘弁してもらいたいものである。すっきりとした晴れ間が欲しい。
 本日は妻と横浜駅まで出かけて、昼食。といってもハンバーグ店で無料のフライドポテトの券があるというので、ついていっただけ。二人でハンバーガーも注文したが、何十年ぶりのことであろうか。店内は若い人ばかりで場違いな二人であった。
 食べた後は私は書店へ、妻は食材の買い物と、別々の方向に分かれた。若い人とは違い、年寄りは別々の方角に進むものである。私はさらに本を抱えていつもの喫茶店に向かったが、混雑していたので、広いイートインコーナーのあるコンビニでコーヒーをもう1杯飲みながら、30分ほどの読書タイム。

 明日は団地の管理組合の諮問機関の会議。昼以降の予定はない。退職者会のニュース作成が無くなると、少々寂しくなる。かといってこれが続くとつらい。なかなか思うようにはならない。


ハンス・アルプ「鳥の骨格」

2021年09月04日 22時23分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 この作品(「鳥の骨格」(ハンス・アルプ、1947、富山美術館)は、昨年11月に横浜美術館で開催された「トライアローグ 語らう20世紀アート」展で見て、印象に残った作品の一つである。あまり現代美術については知らない私なので、作者のハンス・アルプ(1886-1966)の名も作品も初めて目にした。しかしどこか既視感のある作品であった。
 この展覧会は、横浜美術館・愛知県美術館・富山県美術館の3美術館の収蔵品で構成されており、富山県美術館蔵となっている。富山では美術館に行っていないので、どこで見たのであろうか。
 ハンス・アルプは、ダダから出発したらしい。木や路傍の石のような自然の物体でレリーフにまとめ、単純化された形の組み合わせで作品をつくっていたという。今回の展示では「森」(1917、開いた県美術館)と題した、油彩と木の小さな作品と、「瓶と巻き髭」(1923-26、横浜美術館)という前者に蔵へ少し大きめの作品が展示されている。後者は厚紙に油彩で着色した瓶・へそ・髭というオブジェで構成された作品である。
 丁寧に切り取られた形をどこか緊張感を醸し出すようにバランスの取れたように配置してあり、私には好感が持てる。しかし1930年代以降彫刻を手がけるようになり、この「鳥の骨格」がつくられたという。題名のとおり、鳥の骨格を思わせる造形であるが、それに捕らわれずにさまざまな印象を受け取ることができる。なによりも丁寧に磨かれた肌合いにまず見とれた。そして不思議な艶めかしさの塊にも見え、人間の造形かもしれないと思った。そして40歳代後半からの新しい転位にも驚いている。
 私はこのように丁寧な造形を好む。いくら邪道、本質は底にはないといわれようと、丁寧という、それだけで好感が持てて、作品に対して親近感を持つ。
 天辺と中央の鋭い突起に、鳥の嘴や、哺乳類の雄の形を見るのもいい。顔のようなところの穴、おなかの位置と思われるところの穴、下部の半円形の穴から人体を想像するのも面白い。空けて見える背後の空間に、マグリットの作品を思い出して、青空と雲を想像することもできる。
 私は是非ともこのミニチュアでも身近に置いてみたいと、思っている。手になじむ形態である。


泡盛とウィスキー

2021年09月04日 18時11分43秒 | 料理関連&お酒

 琉球泡盛が好きなので時々購入してくる。お酒の安売り専門店で、7月半ばに購入したのが「久米仙ブラック古酒35度」。好きでもそんなに高価なお酒は購入できないが琉球泡盛は廉価なので嬉しい。この古酒も1500円前後だったと思う。
 それでもいじましくちびちびと飲んでいるうちにとうとう8月末に最後の一滴を迎えてしまった。
 妻の顔色をうかがいながら、ちびちびと飲んでいると、味が分からなくなるが、一週間で無くなると、もっと悲しい。ちびちび飲んでいる合間には、ビール、ワイン、チューハイやらワンカップなどで気を紛らわせながら過ごした。



 本日はお酒の専門店には寄らず、スーパーで私にしては高めのウィスキーを購入してきた。税込み1600円のブラックニッカの「ディープブレンド」というのだそうだ。
 私は1本2000円を超えるお酒を購入することはまずないし、その上、ウィスキーは購入するのはさらに珍しい。
 思い出すと、ウィスキーは学生の頃は、トリスやエキストラニッカ、レッドばかりであった。昔の髭のブラックニッカなどはとても購入できなかった。今回は、あの髭のブラックより少し高めであった。ずいぶんと私も贅沢になったものである。
 現役時代はウィスキーはほとんど購入することも、まして外で飲むこともなかった。この10年ほどハイボールが流行りだして、居酒屋で時々飲むようになった。しかし家ではほとんど口にしないまま現在に至っている。ウィスキーが欲しい時は、角瓶のポケット瓶を一年に一度くらい購入する程度であった。
 ということで妻の目を気にしながら、記念撮影。
 恥ずかしながら、味の良し悪しについては、まったく分からない。ただこれが1600円のウィスキーというものか、という程度の感想で満足している。
 泡盛や、九州各地の乙類焼酎などのほうがまだ違いが少しだけは分かる。日本酒についても少しだけは違いは分かるつもりであるし、日本酒特有の旨味が好きである。
 だが、日本酒はどうしても一度に1合程度しか飲めない。口の中が1合だけでべとついたように感じて、それ以上飲めなくなる。
 多くの人とは反対に、日本酒をまず1合未満飲んでから、焼酎のお湯割りないしロックを注文する。同行した人も、店の人も不思議そうな顔をする。

 今夜はこのウィスキーの水割りで満足することにしたい。


「最悪のシナリオもある」という警戒感を持ちたい

2021年09月03日 23時17分40秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 今週はとうとう神大の生協に注文した本を受け取りに行く機会を逸してしまった。午前中の強い雨で行く気を無くしたり、棚卸での休業日など出向いても店が開いていなかったり、とどうもうまく歯車がかみ合わなかった。土曜日、日曜日は生協も休みなので、雨が上がっても本は入手できない。
 その分、遅れていた読書が少し進んだので、今読みかけの本を読み終わってから、入手することになる。「積んどく」本が少なくなることは悪いことではない。
 本日はこれにて店じまい。パソコンの周りを片付けて就寝の準備。本日からタオルケットだけでは寒いので、夏掛けを出してもらった。

 
 さて、総理大臣が混乱の末にようやく辞意を示した。安倍前総理以来2代10年にわたり、憲法の規定を無視し、総理大臣の顕現を異常に強め、国会を軽視し、政治を私物化してきた政党に自浄作用など求めたくもない。
 彼らを支えてきた政治家は、また同じことをする。

 私は、今の総理大臣はひょっとしたら「コロナ禍」ということを理由として、短期間であっても衆議院の任期満了を無視して選挙を先延ばしするという、専制国家並みの無茶をするのではないか、という不安が拭いきれなかった。一応その恐れは多少は回避できたかもしれない。
 しかし彼らを取り巻いていた与党の国会議員は、国会開催の義務を果たさないままに任期満了を迎えたり、解散したりすることを支えてきた人間である。私はそのことを今でも恐れている。どさくさにまぎれて、任期満了という時期が迫る中、私の不安は完全には解消していない。

 戦争の不安、パンデミックの不安、コロナ蔓延の契機をつくるような全国選挙は好ましくない、という国民の不安を逆手にとって、勢力が少なくなる恐れのある選挙を回避する、専制者の口実である。今の総理とそれを支えている政治家への不信は極度に高い。

 残念ながらこの10年を見る限り、日本の政治体制を支える政治理念については、かなりの後進国なのであることが明らかとなった。現在は経済もそうなりつつある。
 政治家を善意で評価してはいけない。そのためのチェック機構は厳正に運用しなくてはいけない。
 


「西洋音楽の正体」(伊藤友計)から

2021年09月03日 21時40分25秒 | 読書

   

 本日も涼しいので、雨が止んだのを見計らって半ズボンではなくジーパンで横浜駅まで歩いた。昨日よりも少し気温は高く、そして何よりも湿度がとても高かったように思う。
 汗をかいて横浜駅近くのいつもの喫茶店にたどり着いた。店内は空いていたので外のテーブル席は止めて、中で涼みながら読書タイム。

 「西洋音楽の正体」(伊藤友計)の第5章を読み終えた。
「無調や十二音技法が調性を崩壊させたというのは実情に即していないと考える。まずなによりも、無調や十二音技法の作曲家たちの意図は調や調性の外に飛び出すことだったのであり、調や調性構造を破壊すること自体は彼らの目論見ではなかったはずである。従来の西洋音楽が24の調をフィールドとして数百年以上の長きにわたって壮大な音楽世界をつくってきたことは事実だとしても、音世界はそれら24の調の上でだけ展開するものでは決してないはずだし、また逆に数百年も経過した時点でそうした音楽政策が飽和し、限界が感じられたとしても無理はなく、だからこそこの閉塞した音世界の外で音楽をつくってみようという方向性はある意味至極もっともなこととも捉えられる。‥「調性の破壊」という文脈でどうしても看過できない音楽家が一人いる。その名はもちろん、ワーグナーである。」
「ワーグナーは減七の和音を、きれに絡めて他の七の和音や九の和音等を多用することによって従来の調性の文脈から明らかに離反しようとしている。」

 以下は次回に。


悪魔の音程「三全音」と「快楽の園」(ボス)

2021年09月02日 20時04分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

   

 本日読んだ「西洋音楽の正体」の第3章の(4)「音階を教える「グイドの手」」の後半で、ヒエロニムス・ボスの「快楽の園」の右側、地獄の情景を描いた個所(右パネルの中段下の左側)に言及した個所があった。リュートの右下にうつぶせに押しつぶされている尻と足が見える人間である。尻には楽譜が描かれている。リュートの左下にも楽譜が敷かれている。
  2018年3月に取り上げた「『快楽の園』を読む ヒエロニムス・ボスの図像学」(神原正明、講談社学術文庫)と読み比べてみた。
 神原正明氏の記述では、天球の音楽と官能の音楽という見出しの個所で、天球の音楽は「魂を高める音楽であり」、官能の音楽は「肉欲に関連して、牧神とセイレンの半獣に堕落する音楽」であったと記述している。
 このリュートの下の尻と紙に描かれた楽譜について、神原は「レンヌバーグによれば、15世紀の作曲の規則から考えると誤りとされ、ボスが音符の読み方を知らなかったからだとする。レンヌバーグはボスか知識不足のため失敗してしまった‥」と記述している。

 しかし「西洋音楽の正体」で伊藤友計は「2017年に公開されたこの絵画のドキュメンタリー映画「謎の天才画家 ヒエロニムス・ボス」の中で、指揮者のレオナルド・ガルシア・アラルコンは、この楽譜内で使用されている音程のいくつかを実際に歌唱してみせ、最後に三全音の音程を歌ったのちに次のようにコメントする。「今の(三全音)が絵の楽譜の音程で、“音楽の悪魔”といわれている。これは使ってはいけない音程なんだ。間違いなくこの部分は音楽家と一緒に描いている」。この「使ってはいけない」とされている音楽の悪魔である三全音が楽器に下敷きにされた人間の臀部に描かれているのだから、この音程がいかに忌み嫌われていたかをこの「快楽の園」は視覚的に雄弁に現している‥。‥いずれにせよ、この三全音が使用を認められていない禁じられた音程であることがこの「快楽の園」という美術作品にも見いだされる。」と記述している。

 私としては、「西洋音楽の正体」の記述を受け止めておきたいと思っている。


半ズボンでは寒かった

2021年09月02日 18時32分15秒 | 読書

 雨が止んでいる。気象庁の雨雲レーダーを見ると、もう一雨あるかもしれないが、そのあと雨雲は切れている。油断は出来ないが、夜には散歩ができるかもしれない。
 本日は特に用事は無かったが、横浜駅まで出かけた。雨、さらに平日の午後ということで、人通りは少なかった。いつもよりも商業ビルに近い喫茶店に入って暫く読書タイム。喫茶店も空いていた。半ズボンで出かけたので寒かった。玄関を出たとたんに涼しいというよりも寒いと感じたが、面倒なので着替えずにそのまま出かけた。横浜駅界隈では半ズボンで歩いている人はおらず、少々恥ずかしかった。家のなかでは半ズボンで十分だが、外ではジーパンのほうが良かった。
 帰りはバスを利用。横浜駅の周囲は弱い雨、家のそばのバス停に降りると雨は止んでいた。雨が上がるのを待っていたのであろう。犬を散歩に連れ出している人がかなり行き交っていた。

   

 「西洋音楽の正体 調と和声の不思議を探る」(伊藤友計)を久しぶりに紐解いた。読みかけの第3章「西洋音楽における半音と三全音 予定調和のための塩と悪魔」を読み終えた。理解度は自信はないが、復習のつもりでそれなりに懐かしく楽しんでもいる。理解度との比例関係はない。夕食後から第4章「調と調性」へ。 


読了「図書9月号」

2021年09月02日 13時16分00秒 | 読書

 昨晩からの雨が続いている。現在は5mm未満の本降りである。気象庁のレーダー画像では50mmを超える雨の区域が迫ってきたが、弱まり、最大20mm程度の雨で済んだ。



 昨晩から読み始めた「図書9月号」、読み終わった。今月は、16編のうち以下の11編に目を
通した。

・[表紙] 夢の言葉の不確かさ    司  修
「人間は毎晩夢を見ているらしいのです。昼の間も星々が天空で輝いているように。柳田国男が史幼年時代に見た日中の星々の輝きは奇跡ですが、私は本当のことだと思っています。人間の睡眠は夢のためにあるといえるかもしれません。‥私の場合、‥記憶にあるのは「面白い夢だったが綺麗に忘れた」です。無意識の底に沈殿しているのでしょうか。」
「「コロナウィルス」はTOKYOオリンピックの形まで変えてしまいましたが、核戦争の影までは消せません。人間にしか消せません。」
 前半は、夢を見ていると思われる記憶もあるものの、目覚めとともに100%きれいに記憶から消えてしまう私にも理解できる。そして夢という不思議なものの領域に触れてみたいというのが私の長年の願望である。余生の間には難しいそう。そのまま死という夢の中に入り込んでみるのも面白いかもしれない。

・咀嚼不能の石           古谷 旬
「2011年9月11日の米中枢同時多発テロ事件後の「対テロ戦争」下、アメリカの法、政治制度が憲法や国際法を逸脱し、「例外状態」に陥った‥。アフガニスタン戦争からの鉄平にともない、‥アメリカは国家間戦争からようやく脱却しつつあるのかもしれない。しかし当面「対テロ戦争」と「例外状態」が完了する見込みはなく、自由デモクラシー腐食の進行も避けえない‥。」

・無駄と遠まわりと、行き当たりばったりと  柳家三三

・時差式               柳 広司
「重要土地利用規制法には、「内閣総理大臣は、審議会の意見を聴かなければならない」とある。が彼らが自分たちに都合の悪い意見などはなから聴く気がないのは昨今の五輪強行開催の経緯からも明らかだ。‥ザル法の弊害は時差式で現れる。早期の廃止が被害をくい止める唯一の方法であろう。」

・身体を介する自己紹介        栗田隆子

・無教会と皇室            赤江達也
 どうしても理解不能な最後の段落。
「戦後日本のプロテスタント・キリスト教思想史は、無教会主義を「キリスト教の良心」とみなし、そのなかに「天皇制」否定する契機を見出そうとしてきたが、そこには強力な前提がある。「天皇制」とキリスト教とは本来的に相容れないはずだ、という信憑である。この信憑は「戦前」を否認しながら、戦後の反省と批判とを駆動してきた。だが、その戦後的な仮定を外してみるとき、日本近代社会とキリスト教の新たな光景が見えてくる。無教会と皇室のつながりは、その“現実”へと突き抜けるための通路なのである。
  特に下線の最後の二つの文章は、幾度か論考そのものを読み返したが、私の独海力では意味そのものがつかめなかった。

・読書の敵たち            大澤 聡

・王子様のいない星(後編)       吉田篤弘

・世代を超えてリレーされる笑顔    真鍋 真

・大泉黒石13 差別と虚無      四方田犬彦
「宇宙の偉大なる無関心という観念にまで到達したとき、『予言』という小説は被差別文学という範疇を平然と飛び越え、‥。宇宙が強いて来る運命に向かい対決を辞さない、人間の実存をめぐる思索へと展開していく。黒石が‥続編を執筆する予定でいたのではなかったかと推測しているが、もしそれが可能であったなら、続『予言』こしは戦後文学における埴谷雄高の『死霊』にも通じる、宇宙虚無論の試みとなり得たかもしれない。」

・「かるみ」という重み        長谷川櫂
「芭蕉はなぜ露骨な古典の引用から面影へ、さらに脱古典へと進んだが。確かに古典は俳句や連句に深みをもたらす。しかしながら、いや、だからこそ古典ほど重苦しく野暮なものはない。脱古典は古典主義者芭蕉にとって自殺行為にほかならなかった。密かに疲れ果てた芭蕉は『炭俵』の刊行を前に終焉の地大坂へ旅立つのである。」
 これはぜひ続きに注目したい。

 


芒・薄

2021年09月01日 22時49分57秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 一昨日、帰りがけに美しい芒を見つけた。この時期のススキがお気に入りである。あまり開きすぎてもいけない。開く前は瑞々しくて美しいが、頑なな印象を与えることがある。さらに芒は雑草の中にすっと立っているのが美しい。手入れされた庭などにあってもありがたくない。特に歯の細い雑草地の緑のなかで存在しているのが美しい。
 そして本当はこのくらいの時に、日が当たっているのが一番美しい。この芒には日が当てっていなかった。撮影しているときに残念に思った。夕陽を浴びている芒を逆光で見るのが好きである。それがかなわなかった。こんど是非そのような機会を逃さずに撮影したい。
 金色に輝くものは全般的にあまり好みではない。しかしこの芒の金色は、理由は分からないが、私のなかでは別である。

★野にありし全長を活け穂の芒     鷹羽狩行

 


「図書9月号」が届いた

2021年09月01日 21時39分14秒 | 読書

 一昨日届いた本、「図書9月号」(岩波書店)。今晩から読むことにした。「万葉集に出会う」を読み終わった。「西洋音楽の正体」がまた先延ばしになってしまった。

 本日は14時過ぎに横浜駅まで歩いた。雨が降る直前、湿度は高かったものの、気温は低く、昨日に続いて、ウォーキングを少しずつ再開である。
 本日の最高気温は朝9時前の、24.6℃となっていた。30℃超える毎日から急激に気温が下がり、体調を崩す人も多いのではないだろうか。私も昨晩、薄着で寝ていて少し肌寒く感じた。風邪を引いたかもしれないと、心配したが今のところ特に異常はない。本日は寝間着をきちんと着て寝たいものである。


読了「万葉集に出会う」

2021年09月01日 21時17分22秒 | 読書

   

 「万葉集に出会う」(大谷雅夫、岩波新書)を読み終わった。久しぶりに万葉集の歌をいくつか自分なりに鑑賞できた。
 この本では、冒頭からこれまで人口に膾炙している歌の読みが違っていると、指摘するところから始まる。
 「石(いわ)ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(志貴皇子)」という有名な歌について、途中の論は省くが、
 「石そそく垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」
が正しいと結論付けている。確かに興味をそそられる指摘と推論であった。
 同時に「さわらび」の季節が初夏である、という指摘にも驚いた。指摘のとおりである。これはすぐに同意できる。初春と位置づけるのは「垂見」が「垂氷(ひ)」と誤写された結果というのも理解できた。



 さらに「東(ひんがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ(柿本人麻呂)」「東の野らにけぶりの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」であるべきだと、としている。東の日の出や陽炎の「かぎろひ」ではないという。「炎」が「けぶり」と読む例をあげ、「けぶり」は「焼き狩りの煙」または「合図の狼煙の煙」としている。このほうが指摘のように父親(草壁皇子)の息子(軽皇子)が父親がした狩りを追体験する場の緊張感が確かに伝わる。
 「炎」の字を「かぎろひ」と読ませた賀茂真淵の感性と語に対する感覚に、私は脱帽していた。輝かしい日の出の情景がこの一首の眼目だと思っていた。しかし長歌と4首の短歌はひとまとめに読むものである。狩りの情景を詠ったこの一連の情景からは狩りの緊張感と草壁皇子の雄姿を彷彿とさせる軽皇子の姿が浮かび上がってこなくてはいけない。著者の「けぶり」説と狩りの合図という解釈は「かぎろひ」の語感以上に魅力的である。

 気になった個所は、自然に人間と同様に人の心を与える万葉集の世界観・自然観を説明する第2章。
 「小川環樹「自然は人間に好意をもつか-宋詩の擬人法」は金星の宋代の詩にひろくみられるようになった擬人表現を考察する前提として、古代詩の擬人法をおよそ次のように概観する。〈「詩経」には‥擬人法を用いた例は極めて少ない。それが「魏・晋以降つまり三、四世紀の詩になるとやや目につき始め、五、六世紀の南朝の詩には相当多くなり、唐代(七-九世紀)ではますます多く見られ‥‥。擬人表現のその時代的変遷は、古代の中国人が自然にいだいた恐怖心がしだいに薄らいで、自然への親密感が増大していった過程と見ることができる。〉と引用したうえで、
「古代以来の中国詩の擬人法の変遷がこのように説明できるものなら、一方の万葉集の人たちの愛好した擬人表現は、逆に、古代の日本人が自然に対して深い親密感をいだき、人と自然との間に大きな隔たりを見なかったことの現れと言えるだろう。山どうしが恋愛し、波や葉や花や露などがもつとする擬人は、‥自然を恐れつつもそれと好感し、鳥もけものも草も木も、紙も人も互いに分け隔てなく交わり親しみあうように想像してきた古代日本人の心性の表現だったことになるであろう」。
 これにはクエスチョンマークをつけたいものである。「古代日本人の心性」という言葉とそれに付随する思い入れが先に立って、中国との比較、中国の影響を初めから拒否している。ちょうど日本の国家形成時と重なる小川環樹の擬人表現の大まかすぎるとはいえ変遷が、日本の万葉集や記紀にどのような影響を与えるか、検証を是非期待したいと思った次第である。

 日本人はどうしても「古代以来の日本人の心性」というようなところに逃げ込んでしまって、史的な変遷や影響関係を初めから拒否してしまう癖がある。これが世にはびこる「日本人論」の昔から変わることのない陥穽である。