Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

何となくお疲れモード

2021年09月10日 20時09分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日はお疲れモードでいつの間にか1日が過ぎてしまった。起き抜けの体温や血圧などもはいつものとおりでこれは快調と、感じた。朝10時過ぎに家を出て、横浜駅まで遠まわりのウォーキング。
 しかし喫茶店で休息を撮っているうちに寝てしまった。朝から眠気に負けた。読書も2ページほどで諦め。正午直前に昼食用にスパゲッティを追加注文したものの、いざそれが目の前に出てくると食欲が減退。半分も食べられなかった。
 地下街を目的もなくふらふらと歩いて、書店・家電量販店・百円ショップ・CDショップと歩き回った。しかし、何を求めているのか、何を探しているのか、自分でも分からないうちにいつの間にか15時近くなり、バスとウォーキングで帰宅。歩いている間はシャキッとしていたので、体調が悪いわけではなかったと思う。暑い日で、汗だけはだいぶかいた。急に気温が上がって疲れが出たのかもしれない。

 明日は退職者会で企画した市内のハイキング。3時間近くのコースを仲間が考えてくれた。何人が参加するか、まだ不明であるが、久しぶりに顔を合わせる仲間もいると思われる。楽しみである。明日はくたびれたといって寝てしまうことはできない。今夜は早めに就寝して明日に備えないといけない。 


「大岡信 架橋する詩人」 第2章から

2021年09月09日 21時38分13秒 | 読書

   

 あまり読書は進まず。
 「大岡信 架橋する詩人」の第2章につぎのような著者の言葉があった。いろいろと議論はありそうな指摘ではあるが、とりあげてみる。
「六〇年安保の衝撃が六〇年代詩を生み出し、六〇年代末から七〇年代初めの大学紛争という「政治の季節」が七〇年代詩を生んだ。この時期に日本の詩は、近代以来の抒情性や調べの世さ、「一編の作品としての形式および主題における完結性といった、それまで価値を持つとみなされた要素が転倒され、本質的な見直しを迫られたと思われる。その代償として、一般に現代詩は難解となり、極端にいうと、詩人以外の人々を寄せ付けない物となった。八〇年代の私にとっても、近代詩のような「分かりやすさ」はそこにはなかった。‥勝手な解釈も含めて、独特な「読む面白さ」があるにはあった。」

 まず画廊を経営していた志水楠男の死を詠んだ「高井戸」全編を引用しているが、私の知っている後半だけを取り上げてみる。

 (前半略)
 舵・櫂・エンジン・綱・帆・ 帆柱
 これらほど頼りにならないものもなかつたとは。
 ひでえもんだ、でもいいももう。おやすみ。
 もっともよく戦った者だけが、もっとも深く
 眠る権利を有するのだ。おやすみ。消える友よ

 六〇年安保の衝撃について、次のように述べている。
「安保闘争は詩壇にも衝撃をもたらし、「六〇年代詩人」と呼ばれる一群の詩人たちが出現する背景ともなった。‥大岡より数歳年少の人々である。大岡が与えた表現によれば、「現実認識が詩的行為であり、詩的行為がそのまま現実認識である世代の誕生」だった。彼らの手で近代以来の詩的表現は根底から解体されたといえる。以後しばらくは、ラジカルな実験性と暴力的なまでの鮮烈さや疾走感こそ「最先端の詩」の特徴となった。」

 大岡信自身の言葉として次のような引用がされていた。
「ここで紹介する五人の詩人は、いってみれば〈広島以降〉の世代にぞくしています。‥ひとつの都市、そしてひとつの文明そのものの完全な破壊ののちにしか、平和というものを知ることのできなかった世代です。‥[日本の敗戦]は同時にアメリカ軍の占領の開始であり、疑わしい平和の開始でした。‥この疑わしい平和のイメージ、人がそこに到着する前にすでに前もって破壊されてしまった平和のイメージが、日本の現代の若い詩のすべてを支配しています。」(大岡信「眼・ことば・ヨーロッパ」)

 


夕焼けは寂しかった

2021年09月09日 18時30分14秒 | 天気と自然災害

 夕方4時過ぎまで降っていた雨がようやく上がった。夕焼けが美しいかと思ったが、まだ雲が多く、残念ながら不発。富士山は微かにのぞいているが、丹沢山塊は見えなかった。
 特に南の空は厚く、そして黒い雲がかかっていた。気象庁の雨雲のレーダー画像では南の空の雨の区域もまもなく東に去っていくようだ。明日の天気は期待はできるのであろうか。
 一日中家に閉じ籠もっているのはつらかった。5時になって歩いて10分ほどのところにあるドラッグストアに買い物。家では半袖のポロシャツでは涼しかったが、夕陽が当たると蒸し暑かった。
 店の傍の小さな公園には待ちかねたように子供が走り回っていた。

 


「日本美術の歴史」から 2

2021年09月09日 13時45分28秒 | 読書

   

 「日本の美術の歴史」(辻惟雄)の続き。すでに私にも既知のことはあるが、私なりの著者の記載の要点を記しておきたい。本日は第2章「弥生・古墳美術」を読んだ。

「縄文人は定住して狩猟とともに採集もやり、補助的ながら穀物栽培も行ったし、弥生人は、狩猟の対象である鹿を神の遣わしと崇めてもいた。フォッサ・マグマを超えた東日本では、‥縄文式と弥生式との葛藤そのものが形になったようなぎこちない土器がむしろ一般的であり、稀には‥両者の調和のとれた融合の例もある。両者の間には断絶よりもむしろ連続がある。縄文的なものと弥生的なもの、岡本太郎が提示したこの二つの美意識の異質性は、決して否定できない。前者を原日本人の土着の美意識、後者を日本が東アジア文化圏に組み込まれてからの混血の美意識ということもできる。大陸的なものも‥縄文人が長い時間をかけて培った原初の美意識の系脈は、簡単には消失しなかった。文化の地底や周縁に潜んで、時折その顔をのぞかす。」(一「縄文に代わる美意識の誕生[弥生美術]」)

「装飾古墳が描かれたと同じ時期、高句麗でも墳墓の壁画が盛んに描かれた。‥中国や朝鮮の墳墓壁画とくらべ、日本の装飾壁画の特色は同心円文‥など抽象文様が多い点にある。‥動物などの具象文も盛期に描かれたが、それらの描写も多分に抽象的であるり、‥平面的羅列にとどまる。‥だが、モチーフの写実的再現のみを絵画の優劣の基準としない現代の見方からすれば、装飾古墳にも大きな価値がある。‥彩色は豊かで美しい。描き手の呪術の力が込められているのを見るのも印象的である。‥死者へのはなむけとしての「かざり」への意欲と情熱は失われてない。」(二「大陸美術との接触[古墳美術]」)

 「美術」として縄文・弥生の遺物や装飾古墳を見る視点に注目した。

 行燈山古墳を崇神天皇陵、大仙陵古墳を仁徳天皇陵とするなど現在の一般的な表記と違う表記は気になるが、世代的にはなかなかこれらの表記がまだまだ通じてしまうのだろう。このような表記が自然と口の端に登らなくなるのはいつになるのだろう。


「大岡信 架橋する詩人」を読みながら

2021年09月08日 22時29分33秒 | 読書

    

 本日は「大岡信 架橋する詩人」(大井浩一、岩波新書)の第2章しか読めなかった。市民病院で検査後のコーヒータイムも、組合の会館で会議が始まるまでの一服時も、メールチェックに追われたりした。

 大岡信の出発が1950年代初頭、私が生まれた年と重なる。そして時代の流れと大岡信の関係をどのように評価していくのか、私の物心ついたときからの体験と照らし合わせながら、読んでいきたい。
 大岡信の歩みを読み込みながら、自分の過去を見つめる読書でもある。

 明日の午前中は雨の予報なので、在宅。少なくとも午前中は「日本美術の歴史」の第2章以降を読む予定。


寂しい百日紅

2021年09月08日 21時03分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 胃癌検診を終えて市民病院を出たときは雨は降っていなかった。しかし昼食を食べている間に雲がどんどん厚くなり、今にも降り出しそうになった。横浜駅前の百日紅も、この時期に、そして秋雨の前にしては、寂しげに見える。百日紅は実がつくと花の房が下向きになるので、いっそう哀れに見えてしまう。

 横浜から地下鉄に乗り、関内駅で外に出てみるとポツポツと降り出しており、組合の会館についたときは本降り。傘を持っていなかったのでだいぶ濡れてしまった。17時半に会議が終わった時にも本降りは続いていた。

 実は横浜市から配信された天気予報では午後の降水確立は20%。これを信じて傘を持って行かなかった。ザックカバーは持参していたので、書類を濡らさずに済んだのは幸いであった。天気予報は見事にはずれてしまった。


バリウムのエピソード

2021年09月08日 20時18分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 胃癌検診は特に問題なく終了。結果は郵送。バリウムも3年前くらいに受検したと思うが、ずいぶんと飲む量も減ったようだ。半分よりももっと少なくなっている。就職してすぐの健康診断では大きな紙コップ1杯を服用させられ、排便も苦しかったと思う。私がいくつくらいの時だったか、急に服用する量が少なくなり、嬉しかったことを覚えている。さらに45年前は味もついていなかったが、量が少なくなったころに少し甘めになり、飲み込みやすくなったと思う。
 しかし近い将来はバリウム検査はほとんどなくなり、集団検診以外は胃カメラ=内視鏡になるような予感がする。集団検診では大腸も胃・食道とも効率の点から困難かもしれない。
 そして下剤もずいぶん改良されたような気がする。わずか1時間で大半が輩出されたようだ。

 本日はアルコールはやめたほうが良いようだ。昔、ビールを飲めば水分を摂ったことになるといわれ、その晩は職場の人と居酒屋に繰り出した。翌日バリウムを排出できずにとんでもない苦しみを味わったことがある。アルコールを分解するために消化器からどんどん水分を吸収してしまい。ビールと一緒に水分を撮ってもほとんど利尿作用で輩出されてしまうとも聞いた。大腸に届いて排出を促すことにはならず、かえってバリウムを固めてしまうと医者に怒られたことがある。


明日は胃癌検診

2021年09月07日 22時10分55秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 久しぶりに雨があがり、午前中は陽射しもあった。横浜駅と自宅の間を往復ともウォーキング。
 特に帰路は7月以前にいつも通っていた道をたどった。上り坂が続く、遠まわりのコースである。1万4千歩ほど。
 横浜駅では、1100円の理髪店へ。10分で仕上げと言いながら、5分も係らずに終了。いくら髪の毛が薄いとはいえ、嘘でもいいからもう少し時間をかけて欲しいと思うのは、髪の毛の少ないひがみであろうか。

 すでに秋の雲が顔を覗かせているが、本日のように雨雲の代わりに空一面に秋の雲がびっしりと広がっているのは何日ぶりであったろうか。

 明日の胃癌検診に備えて、22時以降は食事禁止。水分も明日の朝7時以降禁止と注意書きに記載されている。
 内視鏡ではなく、バリウム検査である。内視鏡検査であればさらに1か月以上先、ということなのでバリウムによる撮影とした。でももし再検査となれば、結局内視鏡検査になるのであろう。初めから内視鏡検査にしておけばよかった、と少し反省。

 朝8時半に家を出て病院に向かう。早めの就寝が必要である。


本日より「大岡信 架橋する詩人」

2021年09月07日 20時02分01秒 | 読書

   

 午後になってから、横浜駅西口近くのオフィス街にあるいつもの喫茶店でコーヒータイム。本日リュックに詰めていった本は、「大岡信 架橋する詩人」(大井浩一、岩波新書)。「日本美術の歴史」(辻惟雄)は重くて、リュックに詰めて持ち運びのできる本ではないので、自宅でしか読むことはできない。

 昨日も記載したが、大岡信の詩を理解できる一助になることを願いながら、読むことにした。
 直接詩を読んでもなかなか理解できないので、外堀から。決していい方法とはいえないかもしれないが、言葉に対する感受性も衰えた年寄りには、かえっていい方法かもしれない、と信じつつ。
 とりあえず本日は、はしがき、序章、第1章まで。


「日本美術の歴史」から 1

2021年09月07日 12時58分38秒 | 読書

 本日から読み始めたのは、「日本美術の歴史 補訂版」(辻惟雄、東京大学出版会)。表紙はどっきりとする横尾忠則のデザイン。ユニークで人目をひく上にいかにも辻惟雄による「教科書」的であると感心している。
 記載によると、
阿修羅(734年 興福寺)、
弥勒菩薩半跏蔵(7世紀前半、広隆寺)、
吉山明兆「白衣観音図」(15世紀初、東福寺)、
俵屋宗達「風神雷神図屏風」(17世紀前半、建仁寺)、
葛飾北斎「神奈川沖浪裏」(1831年以降)、
岡本太郎「痛ましき腕」(1936年)、
横尾忠則「お堀」(1966年)
が散りばめられている。
 そして目次がとても細かい。13ページにも及ぶ。一気に掲載するのは無理なので、本日は第4章までとした。

 本日読んだのは第1章。
 まずはアート(美術)の定義として、
「アートとは(C.O.Dを踏まえて)“創造的な技と想像力を駆使して「もの」をつくる行為”であり、その結果として生まれた作品ということになる。これにわたしの見解を一つ加えるならば、アートは制作者の意識や意図を超えて存在し、のちの人々の眼によって「発見」され「再生」されるものものである。縄文土器はその良い例にほかならない。」
としている。
 最後に
「美術に心の「癒し」や「慰め」を求めがちな現代人にとって、縄文土器・土偶はそれほど付き合い易い相手ではない。理解を超えた不気味さがわたしたちを戸惑わせる、と同時にそのたくましい生命感がわたしたちの中に眠るなにかをゆさぶる。その矛盾した性格は、人間存在の根底につながるもの‥。」
「縄文文化には、王権が確立されて以降のような中央と地方、中心と周縁の関係がまだなく、美術は各地域で互いの交流を通じ、ほぼ同等に発展した‥。これは縄文美術の大きな特色‥。」
と結論付けている。 


病院の負担が2割に‥

2021年09月06日 22時26分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 午後からいつもの内科に行き、高血圧の薬を処方してもらった。今月から負担割合が2割になり、毎回病院に支払っていた1500円余りの金額が1000円をわずかに切る額となった。薬局での支払いも2000円を超えていたが、1500円未満になった。これが5週間ごとの支払いなので、年間では1万円近くの減額になる。確定申告も含めてどの程度になるかまでは不明。
 薬局を出た時点で弱い雨が再び降り始めたが、傘を差して横浜駅まで歩いた。喫茶店でコーヒータイム&読書タイムとしていたが、45分ほど熟睡してしまった。目が覚めると18時、慌ててバスに乗り帰宅。すでに夕食の用意が整っていた。

   

 夜には午前中に購入した「別冊日経サイエンス 感染症Ⅱ」をめくっている。すでに毎月の通常号に掲載されている記事ではあるが、毎月目を通すと廃棄しているので、退職者会の仲間に紹介したいいくつかの記事をピックアップして、コピーの準備をした。

 本日、1100円の理髪店に行く予定も立てていたが、時間的に無理であったので、明日に延期。明日は晴れて温かくなるらしい。しばらくは半袖で過ごせるようだ。長袖は次に涼しくなったときに箪笥の奥から出してもらうことになった。

 明日からは先ほども記載した通り、「大岡信 架橋する詩人」(大井浩一、岩波新書)と、「日本美術の歴史」(辻惟雄、東京大学出版会)を読む予定。
 


読了「西洋音楽の正体」

2021年09月06日 21時52分45秒 | 読書

   

 「西洋音楽の歴史 調と和声の不思議を探る」(伊藤友計、講談社選書メチエ)を読み終わった。後半、引用しようかと思った個所もあったが、最後の終章の2個所の引用にとどめておくことにした。

「和声学の始祖ともいうべきラモー(1683-1764)」について「音楽現象は自然に還元できるという考えはラモーを終生捉えて離さなかった。音楽の根源はヒュタゴラス以来の数比の伝統に則ることでさかのぼることができると考えたが、近代科学の知見に触れて以降は倍音という自然現象こそが音楽の根源であると捉えた。しかし科学によって音楽現象を自然に還元しようとするラモーの試みはことごとく失敗した。音楽に何らかの統一原理が存在するはずだという強固な信念を捨てきれないラモーは晩年に至って神や創造主といった神秘的宗教観へと傾き一生を終えた。‥“自然現象こそ森羅万象の根源”という「自然観」はラモーに限ったことではなく、この時代全体の最重要キーワードの一つであった‥。」(終章「音楽と自然」 (2)「“自然探求”と音楽」)

「ヴィヴァルディの《四季》やベートーヴェンの《田園交響曲》など自然描写そのものを指向した楽曲は多数存在する。しかし‥彼らの楽曲の素地であり土台である音階や和声は紛れもなく人工物である。‥古代ギリシャの時代から音階の設定にどれだけ思考を働かせ、16~17世紀に「現代の調性」が明確な姿を整えるようにまるまでに、どれだけの人間の思惟が絡んできたかを見てきた‥。西洋音楽は、人間の知的鋭意が長年の時間のなかで、歴史的、文化的、民族的、経済的、宗教的等に構築してきた人間の所産である。素朴な「音楽=自然」観には真摯な反省が求められるべき‥。しかし音楽の自然面を完全に無視するのもバランスをかいた見方であろう。‥「楽音」が生み出されるためには自然界の「音」がまた必要とされるからである。」(終章「音楽と自然」 (5)「音楽と自然-総括」)

 著者自身も最後に触れているが、西洋音楽を「調」「調性」「和声」から考察しているが、「リズム」という観点には触れていない。以降の著者の論考に期待することとしたい。

 


本日購入した書籍

2021年09月06日 19時43分37秒 | 読書

 午前中雨が降り出す前に、神大の生協を往復。注文していた本を購入してきた。

・「日本美術の歴史」補訂版 辻惟雄、東京大学出版会         3080円
・「大岡信 架橋する詩人」 大井浩一、岩波新書            986円
・「古代文明と星空の謎」 渡部潤一、ちくまプリマ―新書        924円
・「感染症Ⅱ 新型コロナと闘う」 中西真人編、別冊日経サイエンス  2200円

 合計7190円の支払い。かなり財布に厳しいものがあったが、注文・購入してしまった。本日中に「西洋音楽の正体」を読み終えるはずなので、明日から読み始める予定だが、メインは家で読む「感染症Ⅱ」から、リュックに入れてコーヒータイムに読む本はまずは「大岡信 架橋する詩人」。
  「感染症Ⅱ」は、必要ならば13日の退職者会の幹事会にエッセンスを持参して配布予定。速やかに「日本美術の歴史」を読み始めたい。
 大岡信の表論文はこれまでにもずいぶん読んだ。「折々の歌」や日本語論、詩歌の解説書など。しかし大岡信の作の詩は難解で私にはよく理解できない。また幾度読んでも自分なりのイメージが湧いてこない。それでも理解したいと思わせる何かがある。この「大岡信 架橋する詩人」がその詩の理解やイメージの構築に少しでも役立つことを願っている。
 「古代文明と星空の謎」は60年近く前の私が星空のさまざまな物語に触れていた時の思いに浸ってみたくなり、購入した。「月刊星ナビ」にいつも寄稿している渡部潤一氏の書物である。
 「日本美術の歴史」は「美術の物語」の講読の講座が終了したので、今度は日本美術の歴史を概観する本を探していたら、たまたま有隣堂の美術所のコーナーで見つけたもの。腰を落ち着けて読み通したい本だと思っている。


高齢者割引

2021年09月05日 23時55分42秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 来週8日(水)には市民病院で胃癌検診を受ける。今年初めにいくつかのがん検診を受けたが、胃癌検診を申込をするのを忘れていた。年度が変わってから申込、7月末に検診を受けることになっていたが、発熱があり、一か月半遅くなった。
 この問診表に本日記入していたら、70歳以上は検診料が「免除」となっていた。予定通り7月28日に検診を受けていたら3,140円の支払いとなっていた。わずか1週間ほどで有料と免除の違いが生ずるところであった。
 もっとも横浜市のがん検診制度で70歳未満の市民が支払う3,140円でも、自費で行うよりも11,000円以上安くなっている。
 来年は他のがん検診の項目も免除となるものがある。胃の内視鏡、肺X線、大腸便潜血、前立腺が免除である。ただし私の場合、大腸検診は従来から内視鏡を受けるよう指導されている。同じく医師から受検するよう進められている肝臓・胆嚢・膵臓3つの臓器がセットになった検査は免除にはならない。いづれも過去の私の病気の経過から、医師から勧められている検査である。
 濱ともカードなど65歳以降各種割引の制度やそれが適用となる施設や店が多数あり、それはそれでありがたい。しかし自分がこんなにも「高齢者」なのか、と敢えて強調されているようで、不思議な心境になる。高齢者であることを突きつけられているようなものでもある。敢えてそれらを利用しないで、飄々と生きていくのもいいが、それができるほど、生活にゆとりがあるわけではない。やはり割引は利用したい。
 気持ちと実態がかけ離れていく。


ブラームス「交響曲第1番」

2021年09月05日 21時03分57秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 NHKFMで、ブラームスの「交響曲第1番ハ短調作品68」を聴いた。管弦楽は、東京フィルハーモニー交響楽団、指揮はチョン・ミョンフン、2021年7月2日サントリーホール大ホールでの録音。
 私がこれまで聴いたブラームスの交響曲第1番とはだいぶ違った印象であった。力強い、というのだろうか。よく言えば芯の強い、骨太に聞こえた。悪く言えば無骨で、どこかつっけんどんであっさりしている。私がブラームスに持つ、ねっとりとして、人なつっこい印象が薄かった。
 同じブラームスの交響曲第4番ならば、どのような演奏となるのか、聴いてみたいと思った。

 同時に放送された13年前に同じ指揮者で演奏された、ベートーヴェンの交響曲第8番第2楽章はそれほど違和感というものは感じなかった。