鹿児島の自然と食

鹿児島の豊かな自然(風景、植物等)、食べ物、史跡を紹介します。

サクランボの花

2008-03-18 | 植物
宮城県に住んでいたとき、山形にサクランボ狩りに行ったことがあります。
木の下に反射シートを敷き、色付きがよくなるようにしていました。
木に登って、サクランボ狩りをしました。

3年ほど前、自宅の庭にサクランボを植えました。

去年とおととしは花が少なく、実も2~3粒しかならなかったのですが、今年はたくさん花が咲きました。
ささやかな花見もできます。


花のアップ。
今年は実がなるのが楽しみです。


庭に雑草が侵入してきます。
年によって、多く侵入する雑草が異なりますが、今年一番進入しているのは、ホトケノザです。

ホトケノザ(仏の座)シソ科

花の下にある葉が、茎を包み込むようになっており、これを仏の蓮華座に見立てたものです。
よく見ればなかなかかわいい花なんですがね・・・
いずれ、除去されることになるでしょう。
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タケノコの煮物

2008-03-17 | 食べ物
タケノコの煮物を作りました。
「もうタケノコが出回る季節か」
と思われるかもしれませんが、違うんです。
モウソウ竹の早掘りは出ているでしょうが、一般家庭にはまだ回ってきません。
コサン竹などは、4月末から5月でもう少し先です。


このタケノコは、鹿児島で言うチンチクダケ(正式名、ホウライチク)で、真夏にタケノコが出ます。
去年の8月に採り、保存していたものです。

保存方法は、1回だけ湯がいて冷蔵庫の野菜室に保存します。
アクが強いため、これで何ヶ月も保存できます。
食べるとき、3~4回湯がくと、採った時と同じ食感が保たれています。
冷凍保存や乾燥だと、パサパサしてタケノコ独特のシャキシャキ感が失われますが、これだといつでも新鮮なタケノコが食べられます。

我が家では夏以降時々食べていましたが、これが最後です。
春のタケノコが出る直前まで食べることができます。
大量に作り、人に配りました。
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祓川の田の神

2008-03-15 | 田の神
ここは鹿屋市祓川町で、祓川小学校から肝属川を挟んだ反対側の田んぼです。


田んぼの中に一段と高い盛土をしたところがあり、上に人形らしいものが立っています。
盛土の上に登ってみました。


上に田の神(たのかんさぁ)がありました。
顔はつぶれていますが、頭にワラでできたシキを被り、袴をはいた田の神です。
田の神は、江戸時代に豊作を願って建てた素朴な石の人形で、田んぼの脇にあることが多いですが、これは一段高いところにあって、田んぼを見下ろしています。

田の神のためにわざわざ盛土をしたのか、他の目的で作った盛土の上に田の神を安置したのかわかりませんが、このような高いところにある田の神は、初めて見ました。
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川田神社の墓石塔群

2008-03-14 | 史跡
昨日紹介した川田橋の左岸から、坂道を少し上ると川田神社があり、ここに墓石塔群があります。


川田神社。


川田神社の裏手にある墓石塔群。
この墓石塔群は、川田氏累代と大川寺代々の住職の墓です。
これらの石塔群に刻まれた文字は、六朝時代の書風で、隋や唐の正しい楷書の品格をもつ価値ある文化財だそうです。
これ以外にも、いろいろな形の石塔がずらりと並んでいます。


川田橋の少し上流の左岸に、古い水車の跡がありました。
水車といえば木製が多いですが、これは金属製のなかなか立派な水車です。
歯車も残っています。
何かの工場で使用されていた水車でしょうか。
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川田橋

2008-03-13 | 石橋
鹿児島市川田町にある2連アーチ橋を紹介します。
国道3号線と県道小山田川田蒲生線の交差点を、県道に入ります。
まもなく、甲突川の支流である川田川を渡りますが、その100m位上流に川田橋があります。


下流から見た川田橋。
 橋長:18.7m
 幅員:2.84m
 支間数:2連
 架設年代:明治34年1月3日


河床に下りて見たところ。


さらに近づいてアーチ部を見る。
まだ新しくて、しっかりしたアーチです。
上部は拡幅されています。


橋の上部を左岸から見る。
手すりは、最近造り直したのか、非常に新しいものです。

明治34年と、石橋としては比較的新しい(と言っても107年たっている)こともあり、まだまだしっかりした石橋です。
甲突川5石橋や、潮見橋ほど有名ではありませんが、鹿児島市の名石橋の一つと言っていいでしょう。
もちろん、現役で使用されています。
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知人の死

2008-03-12 | エッセイ
最近、知人が二人相次いで亡くなった。
入退院していることは知っていたが、あまりにも突然の死だった。
自宅に香典を持って行き、奥さんに話を伺ったのだが、二人の死は共通するところが多かった。
二人とも50代の働き盛りだった。
死因はガンで、数年の闘病生活の末の死だった。

二人とも、全てをわかった上で、死を覚悟し、従容として死についたとのことだった。
Aさんは、最後の入院の前には会社の机を整理し、葬儀用の写真を選んだそうである。
最後はホスピスに入ったということだった。
二人の奥さんとも
「主人は、痛みに耐えながらも、家族に当たることもなく、強くて立派な人でした。あの人と生活できて幸せでした」
とおっしゃっていた。

ガンなどで死を宣告された人の心情は、次の経過をたどることが多いそうだ。
①死を宣告されたことを信ずることができない。何かの間違いであって欲しいと願う。
②自分がこのような境遇に置かれたことに怒り、まわりの人に当たる。
③全てに絶望して落ち込む。
④死を現実のものとして受け入れ、死の準備をする。

お二人がこのような経過をたどったかはわからないが、最後は④の心情だったようだ。
もちろん、他人にはわからない心の葛藤があっただろう。
自分が死を宣告されたら、このように落ち着いて死を迎えることができるだろうか。
気がついたら(?)、いつの間にか死んでいた、というのが理想なのだが・・・
死を現実のものとして、身近に感じさせられる出来事だった。
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鹿児島市都市農業センター

2008-03-10 | 施設
鹿児島市犬迫町に、都市農業センターがあります。
これは鹿児島市の施設で、市民が気軽に農業に関する研修や体験をすることができる施設です。
広さ30haの土地に研修館、ビニールハウス、農場などがあり、あちこちに季節の花が咲いています。
特に農業体験と堅苦しく考えなくとも、家族連れがピクニック気分で遊ぶのに適した施設です。
ようやく暖かくなり、家族や仲間で来ている人がいました。


都市農業センター入り口。
正面が本館。


一面の菜の花畑。
もうすぐ満開を迎える。


スミレ畑。


家庭菜園。
1区画4m四方くらいの菜園を借りることができ、家族で野菜作りや収穫を行っていました。
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カシミア橋

2008-03-09 | 風景
種子島は平坦な島なので、深い谷や長い橋はないと思うかもしれませんが、そうでもありません。
種子島で一番長い橋を紹介します。


上流から見たカシミア橋。
名前の由来は、昨日紹介したカシミア号の漂着地に近いためであることは言うまでもありません。
橋長は207mあります。
島の東海岸にあり、大野という集落と立山と言う集落に間にある大川田川にかかる橋です。
川自体は、手前の樹木の下にあって写っていません。
橋のすぐ向こうは太平洋で、小さく写っているのがそうです。


橋の上から上流を見る。
長さだけでなく、高さも高い橋で、下を見ると高所恐怖症の人は身がすくむかもしれません。
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カシミア号漂着の碑

2008-03-08 | 史跡
種子島には、昔から異国船の漂着があり、それに伴う多くのドラマがありました。
その最大のものが、鉄砲伝来であることは言うまでもありません。

明治18年、アメリカの商船「カシミア号」が種子島東方海上で難破し、乗組員が立山海岸と伊関海岸に漂着しました。
安城(立山のある村)と伊関の村民は、漂着した乗組員を救出し、手厚く介抱して無事アメリカに送り返しました。
この人道的行為にアメリカ政府は感謝し、当時のクリーグランド大統領から、感謝状、金メダル、5千ドルの大金が両村に送られました。
立山海岸に漂着の碑があります。


立山にある漂着した海岸。
礫からなる海岸です。
立山小学校の前を下りていったところにあります。


米国人漂着地の碑。


近くにある恵比寿神社。
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松寿院の防波堤

2008-03-07 | 史跡
幕末のころ、種子島に松寿院という、島を治めた女性がいました。
最近、この松寿院が少し脚光を浴びています。
なぜかと言うと、篤姫の叔母さんに当たる人だからです。
篤姫ブームで、松寿院のことをもっと知ろうという動きが出てきました。

松寿院は薩摩藩主、島津斉宣の二女で、兄弟に島津斉彬の父(斉興)と篤姫の父(忠剛)がいます。
つまり、斉彬と篤姫の叔母さんになるわけです。
(ちなみに、斉彬と篤姫はいとこに当たる)
松寿院は、幼い頃、種子島の領主種子島久道との婚儀が決まり、正室となります。
数人の子をもうけますが、病死などで世継ぎに恵まれず、久道も死去します。
このため、女性ながら島を治めたのです。

松寿院は数々の事業を行いましたが、南種子町平山の大浦塩田開発、大浦川の河川工事、西之表港の防波堤築造が、三大事業と言われています。
西之表港の防波堤が今も残っています。


松寿院が築いた西之表港の防波堤。
この防波堤は、子供の頃から見慣れたものであり、松寿院が造ったものであることも知っていましたが、斉彬や篤姫との関係は最近知りました。


前の写真の反対側にある防波堤。
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