鹿児島の自然と食

鹿児島の豊かな自然(風景、植物等)、食べ物、史跡を紹介します。

天保山公園のクロマツ

2008-11-14 | 巨樹・古木
昨日、鹿児島市甲突川河口の天保山公園にある調所笑左衛門の像を紹介しました。
天保山という名は、甲突川河口に堆積する土砂を浚渫して積み上げ、小高い山になったからで、その造成を発案したのが調所笑左衛門です。

その天保山公園に、鹿児島市の保存樹に指定されているクロマツがあります。

公園は、全てクロマツ林からなっています。
このクロマツ全体が、保存樹となっているのです。
その数は、190本です。
マツクイムシにやられることもなく、生き生きとした松です。


大きいものは、直径70~80cmあります。


公園には、以前紹介した砲台跡があります。
薩英戦争のとき、ここから大砲が発射されました。
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調所笑左衛門の史跡

2008-11-13 | 史跡
幕末、薩摩藩の財政は行き詰まっていました。
時の藩主、島津重豪は、一介の茶坊主上がりの調所広郷(ずしょひろさと、通称笑左衛門)を家老に抜擢し、財政改革を命じました。
調所は、財政の興隆を図り、数々の土木工事や殖産事業を起こしました。
西田橋など甲突川五石橋も、調所の発案によるものです。
500万両あった借金を返済し、50万両の蓄えを残しました。
これが、薩摩藩の明治維新の原動力となったことはよく知られています。

薩摩焼で有名な、日置市東市来町美山にある玉山神社。
この参道に、調所の墓があります。


調所笑左衛門と村田堂元の招墓。
調所は、当時行き詰まっていた苗代川(美山)に村田を派遣し、数々の施策を実行し、苗代川の人々を救いました。
これに感謝した苗代川の人たちが、招魂墓として建立したものです。


鹿児島市、甲突川河口の天保山公園にある調所笑左衛門の像。

調所は、幕府より密貿易の責任を取らされ、自害します。
その汚名は、今でも晴らされておらず、西郷、大久保、島津斉彬など、維新の功労者に比べ人気がありませんが、調所の財政改革がなければ明治維新も成らなかったでしょう。
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大浦川のマングローブ

2008-11-12 | 水辺の風景
昨日紹介した種子島宇宙センターから、東海岸を北上します。
中種子町との境に、大浦川が流れており、その河口にマングローブの群生地があります。


大浦川河口。
太平洋に注いでいます。


大浦川河口付近で、上流を見たものです。
広大な干潟が広がっています。


マングローブの群生地。
鹿児島県のマングローブで最大の規模は、奄美大島の住用にあるもので、それには及びませんが、それに次ぐ規模です。
もちろん、種子島では最大規模です。
(国上の湊川河口にもあるが、規模はこれより小さい。)


マングローブは、ほとんどメヒルギです。
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種子島宇宙センター

2008-11-11 | 風景
種子島宇宙センターは、以前紹介しましたが、再訪したので、前回紹介しなかった風景を含めて、再度紹介します


宇宙センターから南を眺めたもの。
左の岬が、鉄砲伝来の門倉岬です。
その向こうの、雲をかぶったのが屋久島です。
鉄砲伝来と宇宙基地・・・
日本の歴史を変えた2つのものが、こんなに近いというのも、歴史の不思議です。


宇宙科学技術館。
宇宙やロケットについて楽しく学べる施設です。
ゲーム感覚で遊べるので、子供にも人気があります。
入場無料。


実物大のロケットの模型。


打ち上げ見学所。
ここから見学できるのは関係者だけで、一般人は入れません。


施設内にある種子島灯台。
灯台と宇宙センターが見事に調和しています。
右下に発射場が見えます。


ロケット発射場。
左の白い建物が、現在の組み立て棟で、右の塔がたくさん立っているところが発射台です。
組み立て棟で組み立てられたロケットが、レールで発射台まで移動し、打ち上げられます。

この宇宙センターは、普段は、ゲートもなく自由に入って見学することができます。
打ち上げ前から入場が制限され、一般の人は、施設外の見学場から打ち上げを見学します。
私も、帰省したとき、上中の宇宙ヶ丘から打ち上げを見ました。
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寺師の田の神

2008-11-10 | 田の神
昨日紹介した、姶良町山田の山田橋から、県道伊集院蒲生溝辺線を西へ少し行くと、寺師というところがあります。
県道十三谷重富線との交差点を右折すると、右側に田の神があります。


寺師の田の神。
人家の庭にありますが、裏は田んぼですので、元々田んぼの脇にあったものと思われます。


近景。
頭からすっぽり頭巾のようなものを被り、両手でメシゲを持っています。
メシゲとスリコギを持った田の神が多いですが、これはメシゲだけです。


後姿。
全体に丸い形をしています。
人家の玄関脇にあります。
人家の守り神にもなっているようです。
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山田橋

2008-11-09 | 史跡
石橋もいいですが、土木学会の近代土木遺産に選定されている古い橋を紹介します。
姶良町山田にある、山田橋です。


下流から見た山田橋。
別府川の支流である山田川に架かっています。


上流右岸から見た橋。
6径間のRC桁橋です。
建造は、昭和4年です。
橋脚が、歴史を感じさせます。


左岸から見た上部。


右岸下流側の親柱。
下に、山田橋の文字があります。


橋から上流を眺めたもの。
堰と魚道があります。
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玉里邸庭園の石橋

2008-11-08 | 石橋
昨日紹介した玉里邸庭園に、石橋があるので紹介します。


桁橋です。
この桁橋の特徴は、一枚岩でできていることです。
ふつう、桁橋は、幅30cm位の細長い石を並べていますが、幅1.5m位の一枚の石です。
運ぶのが大変だったでしょうね。


前の石橋を横から見たものです。
厚さは薄いです。
茶室の隣にあります。
鶴の池に流れる細い水路に架かっています。


鶴の池に架かる石橋。
これは通常の幅の石橋です。


前の石橋を横から見たもの。


石灯篭がいくつかありますが、その一つです。
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玉里邸庭園

2008-11-07 | 史跡
鹿児島市玉里町の、鹿児島女子高校(鹿児島市立)の一角に玉里邸庭園があります。
玉里邸は、天保6(1835)年、27代藩主島津斉興によって別邸として造営されました。
西南戦争で消失しましたが、明治12(1879)年、島津久光によって茶室などが再建されました。


鹿児島女子高校の正門。
庭園を見学するには、正面の事務室に行き、許可を得てから入ります。
日曜でしたが、事務室は開いていました。


道路に面した黒門(南表御正門)。
島津久光が死去し、明治20年に国葬が行われたときに造られた門です。
ここからは、入れません。


庭園内部。
鶴の池と、向こうにあるのが茶室です。
豊臣秀吉の、伏見の茶室にならって造られました。


キリシタン灯篭。
キリストをかたどったものや、アルファベットが刻まれています。
島津斉興の養女勝姫が信仰していたといわれています。


庭園内にある、鹿児島市の保存樹に指定されているタイサンボク。
 幹周り:2.37m 
 樹高:16.5m
 樹齢:180年
タイサンボクは、白い大きな花が咲く木です。


庭園を出て、校庭を横切って帰ろうとしたら、校庭の隅にも庭園があります。
前庭(上御庭)です。
池は亀の池で、中央の石が亀の形をしています。

こんな日本庭園がある学校はいいですね。

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漢字

2008-11-06 | エッセイ
漢字というのは難しい。
中国から漢字が導入されたとき、「木」という字は日本で言う「き」のことだから、「き」の読みを当てた。訓読みである。
また、中国式の「モク」という読みも当てた。それだけでなく、別の読みの「ボク」という読みも取り入れた。音読みである。
音読みに2種類あることは
男(だん、なん)、女(じょ、にょ)、若(じゃく、にゃく)、外(がい、げ)、日(にち、じつ)
などいくらでもある。
漢音と呉音であり、一般に女(にょ)のような柔らかい音が呉音である。
このように、漢字の読みには大きく3種類くらいある。

これだけで驚いてはいけない。
漢字の読みは、どう読んでもいいのである。
秋刀魚(さんま)、百日紅(さるすべり)、案山子(かかし)などいくらでもある。
東海林を「しょうじ」と読むと聞いて、どれが「しょう」で、どれが「じ」だ?
と聞いた人がいるそうだが、そうではなく、東海林全体でしょうじと読むのである。
義母と書いて「はは」と読ませることもある。
夫と書いて「つま」と読ませてもいいのである。
最近は、子供の名前に、宇宙と書いて「そら」と読ませるなど、漢字本来の読みでない名前が多い。
こんなめちゃくちゃな言語が、世界で他にあるだろうか。
英語でdogと書けば、ドッグとしか読まないだろう。
我々は、いやでもこの漢字と付き合っていかなければならないのである。

日本に、漢字でなくアルファベットが導入されていたら、我々の言語生活は大きく違っていただろう。
ベトナム語は、アルファベットを取り入れているが、それはすなわち母国語をローマ字で書くことに他ならない。
日本語もローマ字で表現したら、ワープロの漢字変換のわずらわしさもない代わりに、明治以降に作られた日本式漢語(哲学など)も、書道という文化も生まれなかっただろう。
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小松帯刀の史跡(日置編)

2008-11-05 | 史跡
NHK大河ドラマ「篤姫」に、準主役級で登場する小松帯刀。
鹿児島市の小松帯刀の史跡は、以前紹介しました。
日置市吉利にある小松帯刀の史跡を紹介します。

小松帯刀は、天保6(1835)年、喜入領主肝付兼善の三男、尚五郎として生まれ、後に吉利領主の小松家の養子となりました。
薩摩藩の家老となり、大政奉還を将軍慶喜に進言するなど、明治維新の礎を築きました。


小松家の菩提寺、清浄寺。


清浄寺の庭にある小松帯刀の像。
鹿児島市の宝山ホールの庭にあるものと同じ形です。


清浄寺の近くにある吉利小学校。
御仮屋(昔の役場)の跡です。


園林寺跡。
ここに、小松家の墓があります。
これは、入口にある頭の取れた仁王像。


小松帯刀の墓。
明治3(1870)年、36歳の若さで亡くなりました。
墓地の隅に、テレビに出ている側室のお琴さんの小さな墓もあります。

これらの史跡は、観光客でいっぱいでした。
小松帯刀は、鹿児島でもそれほど知名度が高かったわけではありませんが、今は全国区の名前となったようです。
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