感情の壊死?:あるのはただ事実のみ

2008-04-12 02:23:16 | 抽象的話題
数年前まで自分が認識する世界は、まるで薄い皮膜を隔てて存在しているかのようだった。その感覚が正確に伝わるかはわからないが、以下の事例を使って説明してみよう。


おそらく小学4年の時だったか、家族旅行で広島に行ったことがあった。厳島神社や江田島など、それなりに印象に残るものだったと記憶している。それからしばらく経ち、宿題を溜め込んでいた俺は夏休みの作文に着手することにした。少し考えたが、書くことが無い。あまりに何もないので「何も書くことねえなあ」と唸っていた俺に向かって、親は心外そうに「広島へ旅行に行ったでしょうが」と言った。


俺は驚かずにはいられなかった。なぜなら、確かに親が言うとおり熊本から広島へ旅行するのは作文の題材にふさわしいビッグイベントで、それをあっさり失念していたからだ。いや、より正確には、親がそれを指摘してもなお、その旅行について書くモチベーションが全く出てこなかいのが不思議だった。


では、その旅行はつまらなかったのかと言えば、決してそういうわけでもない(もしそうなら逆にわかりやすくていいのだけど)。例えば、神社や景色を美しいと思ったし、人がそれに感動するのも理解できた。論理的に考えれば、そこには対象への感動があるべきだ。にもかかわらず、自分の感情には深い跡が残っていない。それはまるで、事実だけが存在するかのようだった。そのちぐはぐさが子供ながらに不思議で、しばらく考え込んだことをよく覚えている。


過去のことを色々書くようになった今にして思えば、必ずしも心が動かなかったのではなく、適切に表現する術を知らなかった部分もあるだろう。それゆえ、繋がりを持たない断片として澱のように沈んでいった感覚も数多く存在するのかもしれない。とはいえ、かつての自分がそういった断片的感覚、あるいは死骸の中に生きていたことは変わらない。これには、義務感にかられた感動や、抑圧などが関係している可能性が考えられる。機会があれば、それらについても考えてみたい。


(余談)
初めて感覚が精神(?)と一致したのは、おそらく大学一年の時に阿蘇の草千里に行ったときが初めてであるが、その原因は全く不明である。
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