「今自分が興味を持っているものは行動経済学やニューロエコノミクスである」と言うと、突然何の話だと思われるかもしれないが、これまで様々なテーマの背景として共通する要素の一つが「人間による事実誤認のパターン」であり、それを定量的・定性的に分析して数値化・可視化する学問として強い興味を持っているということだ(先ごろ書いた「バカは殺してもいいということですか?」はその一例で、冷静に比較対照を行って説明する鴻上と生理的嫌悪感に振り回される女史の違いはそこに向き合う意思があるか否かだと言える)。
このように言うと、人間の愚かさにフォーカスするという印象を与えるかもしれないが、そうではない。非常に賢明な分析力を発揮するかと思えば、極めて愚鈍な判断も下す、そのような人間の「偏った合理性」(限定合理性)を正確に理解したいという意図だ。
ちなみに「人間の事実誤認のパターン」という視点でこれまで書いてきた記事の一部を例に挙げると、
1.宗教と思索
信仰や迷信。あるいは、自分は無根拠な話を根拠もなく信じている、という事実を理解していないということ。ちなみに「『神の罰』の合理性」などもこれに類する記事。
2.極限状況での行動
極限状況でも自分が日常と同じように振舞えるはずだ、という思い込みについての記事。これは正常性バイアスや認知的不協和のような「認知の歪み」と連なる話である。
1や2に比べると全く別の系統に思われるかもしれないが、歴史の実態とイメージの乖離というのも、先に述べた「事実誤認」の一環と言える。そこから、なぜそのような齟齬が生まれたのか?という視点で創作物の影響力や、偽史、偽書、陰謀論の訴求力などにつながる。早い話が、「わかりやすいものに飛びつく」という性質であり、また「どのようなものを受容しやすいと人は思うのか?」という事例研究でもある、と言えば災害時のデマや流言とも関連してくる。
1や2から当然のように出てくるものでもあるが、これがフランス革命を起こした理性万能主義への懐疑的姿勢としてバークのような保守主義を生み出したことはすでに述べた通り。これだと単に人間観や信念のように思えるかもしれないが、冒頭の行動経済学と絡めると、こういった視点は伝統的経済学が持っていたホモエコノミクス(=合理的判断をする理性的人間)を土台とした経済思想を批判する態度にもつながってくる(たとえば「流動性の罠」なども例として挙げることができるだろう)。
これまでの話から人間の必謬性というものを科学的に理解していると、合理的なAIが発達する=人間の非合理性が超越できるなどという発想や、それに近いような制度設計は当然成り立たなくなる。なるほど将来のリスクというものを現在の快楽と比較対照しながらわかりやすく説明してくれるかもしれないが、それに従うか否かを決めるのは偏った合理性を持った人間である。このことは、保護者やパートナー、医者などによる筋道が通った説明・説得に必ずしも従うわけではないという事例は無数に見聞きしているだろうから、今さら言うまでもないだろう。
とはいえ、AIの発達により例えば健康に害を及ぼすような行動の社会的コストが明確に計算され始めた時、それを社会としてコントロールしようとすることは十分考えられる話で、それがタバコの大増税などにつながることは十分考えうるだろう。これを多様性の許容とパラレルに行うとすると、自由に行動できるかそこに大きなコストが伴うように制度設計するリバタリアン・パターナリズムのような方針が採られる可能性は高い(近代的な規律訓練=教育や説得でムリなら、そもそも仕組み上そのような行動が取りにくいようにコントロールしてしまおうとする動き)。
という具合である。こういった理解を深めるに際して、これまで毒書会で取り上げてきた『AI原論』、『ホモ・ルーデンス』、『反知性主義』、『資本主義、社会主義、民主主義』などが自分の糧になってきたと改めて思う昨今である。
というわけで冒頭の話に戻るが、これからは行動経済学やニューロエコノミクスにも手を広げていきたいと思っている次第である。
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