地球平面説、反知性主義、体系化の欲望

2024-01-07 11:46:24 | 抽象的話題
 
 
 
 
大手メディアの報道に対する穏健な懐疑主義の話をしたところで、一日ぐらい空けるか~と思ってたら、12時間後ぐらいにおもしれー動画が上がっていた。このブログでも、フラットアーサー擬似科学(民間療法や反ワクチンなど含む)、あるいは自然科学とは離れるがマンハイムの『イデオロギーとユートピア』などを取り上げてきたので、それらとも繋がる話となっている(あるいは認知科学や観測者の限界などにも言及したことがある)。
 
 
内容的には地球平面説の話で、ああよくある「イロモノ」の紹介ねと思いきや、「そもそも科学的思考とは何か」という視点に立ち入ってデカルトやベーコン、ウィーン学団やポパー、クーンなどにも説明が及んでおり、なかなかに興味深い内容だ。
 
 
ただ、一つだけ提案をするとしたら、地球平面説の土台として、単に宗教的信念だけでなく、特にアメリカに関わる話として「反権威主義の土台としての反知性主義」を要素として入れるべきだったかなと思う。ホフスタッターが提唱し、森本あんりがわかりやすく紹介した「反知性主義」は、言葉だけ聞くとあたかも「小難しいことはどうでもいいんじゃね?」という「愚昧さ」を体よく言い換えたものぐらいに聞こえるかもしれない。
 
 
しかし実際はそんな単純なものではなく、昨日取り上げた対談で先埼が「アメリカ人の考える自然に抱かれる私」という観念とその背景で述べたように、アメリカンウェイオブライフと密接に関わるものである。もう少し丁寧に説明すると、信仰篤き者にとって、世界とは全知全能の神が作り出した奇蹟そのものであり、それと合一することは言わば神との合一を意味する(と聞くとスピノザ的な汎神論を連想する人もいるだろう。こういう点ではアニミズムと似通った性質を持つのは興味深い)。
 
 
このような思考態度からすると、「小難しい」理論を振りかざして、(知覚できない重力の存在など)実感に反するような説を唱える人々というのは、まさにそれと真逆の(=サタンに魅入られた)存在という理解になる。ではなぜこれが反権威主義の要素を持つのかと言えば、近代とは科学革命を経た諸々の自然科学の進歩と並行する形で発展してきたわけで、それらが正当な理論(お墨付きを得た体系)として学校で教育されるのはもちろん、自然科学の理論に精通している人は高い学歴を持ち、大学などの高等教育者やテクノクラートとして権威ある立場にいることが多いからである。
 
 
一般的に教育が発達した現代では、こういったものをしっかりと身に着け正しく援用することが望ましいと教育され続けるので(実際学歴や出世はもちろん、命に係わるケースもある)、「そんな難しいことは知らない」とは思っても、「そんな体系はそもそも無意味である」と思う人は少ない(さすがに科学万能主義は牧歌的に過ぎるというものだが)。しかし、先にも述べたように、反知性主義とは、信仰を土台にして「地に足をつけ」、実感や自然とともに生きるスタイルをもって、頭でっかちな理論に騙されるなという思考態度を指す。その結果として、「反権威主義の土台としての反知性主義」という性質を帯びるわけである。
 
 
このような理解を踏まえれば、「今ある理論体系を鵜呑みにすべきではない」という穏健な懐疑主義との差異、すなわち過激な懐疑主義・否定主義が生まれる背景を把握でき、また両者を混同する愚も避けることができるのである。
 
 
さらに言えば、こういったアメリカの信仰や宗教的世界観の理解は、例えばカリフォルニアンイデオロギーやシンギュラリティなどいかにも技術至上主義に見えるような発想の根底に、極めて強い宗教性が存在していることを理解し、アメリカの二重性・多層性を把握する上で有益だろう。もちろん、バイブルベルトや沿岸部と内陸部の差異といった州による地域性は大きいのだが、科学と宗教という一見水と油のように見える要素が混在している点に注意する必要があると。
 
 
・・・ただまあかつての大科学者たちの様相を見ると、パスカルやゲーデル、アインシュタインと実に多くの人物がむしろ篤い信仰心を持っていたのであり、この点については「体系化及び体系的理解の欲望」という観点で宗教と科学を等価に見てみる引いた視点も必要だろう。ハラリの『サピエンス全史』ではないが、げに人間の妄想力は偉大なり!というわけだw
 
 
というわけで以下は少し別の話になるが、個人的には、「この世界が無矛盾な法則により統一的な体系の元に成り立っているというのは一体どこの誰が証明したというのか?」と思う。「私を縛る『私』という名の檻」で書いたことにつながるが、世界が体系的な何かであるというはあくまで願望や妄想であって、最もよく言っても仮説のレベルでしかない。こう書くといわゆる「アンチノミー」では?と思われる向きもあるだろうが、少なくともゲーデルやハイゼンベルクの仕事をみれば無矛盾はありえない訳で、むしろ(一定の法則があることは今のところ観測されているが、全体としては)カオスと理解しておく方が妥当なのではないか、というのが自分の現在の結論である。
 
 
ともあれ、そんな身からすると、宗教家であれ科学者であれ、ようもまあ体系の存在を前提として喋れるもんやなと不思議に思うわけである(まあとりあえず「 」に入れてそう考えてみる、てのは別に理解できるが)。
 
 
そもそも、人間のように必謬性を負った存在が「全知全能の神」の言葉や意図をあまねく受けとることができようはずもなく、つまり聖典なるものが所詮サピエンスという名の思い上がった猿の妄想の産物とはどうして考えないのか、私には不思議でしょうがないのである(なお、超越者が存在しうる可能性と、そういうものについて語った何らかの理論体系に正当性があるということは、全く別の話だ)。
 
 
一応言っておくと、自分は「まあ宗教とか信じてた方が柱になってより良く生きれるんじゃね?」というパスカル的な功利主義は別にありだと思うけど、その宗教が提供する体系であったり、体系の存在自体を所与のものと思い込み、その期待とのギャップに苦悶・発狂するような思考態度になっちまうと、もはや完全に呪いだよねと思うのである(これは「『一切皆苦』について」で書いたこととつながる)。
 
 
以上。

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