前回の「生や死の持つ『暗闇』:恐れと答えの希求」で書いたことは、およそ当たり前のことである。しかし、今一度この前提をしっかり認識する必要があると思う。というのも、特に現代日本においては、宗教への「無知」が横行し、そこから生じる毛嫌いも無視できない程に蔓延しているように思われるからだ。その状況については「宗教」の過去ログを参照してもらうとして、私が危惧するのは、その反動として、科学や「合理」を無邪気に信奉してしまっているのではないか、ということである(後者が相対的なものであることについては過去ログで書いた通り)。
例えば、生や死に特別な意味はない(=偶然に過ぎない)、という見方について言及したが、それが「暗闇」に対して様々な定義付けを行っている宗教への反感に基づいているのだとしたら問題である。というのも、そうなると意味付けを行う宗教への反感から、(無意識的にであれ)恣意的にその反対となる答え(特別な意味の不在、偶然etc)を求めているのであり、実験などに基づく根拠のない「非科学的」なものに過ぎないからだ。結局それは、結論ありきの「かくあれかし」的なものでしかなく、理論的にも、そして感情的にも公正なものとは言い難い。
ところで、「生や死の意味について考えること自体がナンセンスだ」と言う人がいるかもしれない。この発言の前提となる概念などはおそらく様々だと思われるが、もしそれが、例えば「解明が非常に困難な事象を積極的に保留すべき」というような意図にもとづいているのなら、(特に学術的な意味合いで)なるほど妥当性を持った意見だろう。とはいえ、前述した如く、基本的に「わからないこと」に耐えられない人間であるがゆえに、その生や死という根源的な問題を、「解明されていないから不明」であるとして「暗闇」のままにしておくのは困難であると思う。
ここで、生や死の問題(特に後者)を一種の「ルーツ探し」ととらえてみてはどうだろうか?「ルーツ探し」としては、例えば生まれ故郷を覚えていない人がそこを一目見ようと欲したり、自分の実の親や兄弟を探して回るといった行為が行われていることなどを指摘できるだろう。その他にも、家系図による「先祖探し」や、言語、人種などにもとづいた民族的・部族的なものなど色々あるだろうが、ともかく様々な場面で「ルーツ探し」が見られるのは事実である。中には、自己の権威づけといった虚栄心によるものもあるだろうが、あくまで自己の由来に対する興味にもとづいた、より「純粋」な「ルーツ探し」も多いと推測される。このように、そもそも人間には、自らの由来に対して疑問や興味を持つ傾向が備わっていると言えるだろう。
こういった傾向に加え、今まで繰り返し述べてきたごとく、「暗闇」の喚起するマイナスの感情のために、人は「暗闇」が「暗闇」のままであることに耐えられなくなるという状況がある。 以上のことから、言わば興味と恐怖という二つの心理的な要請から、人は生や死の「暗闇」に囚われざるをえない側面を持っていると言える。そしてまた、(「暗闇」に対する解答として、宗教の代替物と人々が想定するであろう)近現代が特徴とする科学や「合理」は、今のところ「暗闇」に対し「わからない」という見解しか提示してくれないのが現状である。宗教に対する「無知」や、信者を単に「弱い」人間と捉えるなどといった一面的な見方から脱却し、いまだ生や死が「暗闇」であるという現状を正確に観察・分析するためには、以上述べた事柄を最低限念頭に置く必要があるのではないだろうか。
※もっとも、例えば宗教団体とのトラブルを処理・調停するような機関・施設が乏しい現状は、可及的速やかに改善されるべきだろう。すでに(無宗教も含めて)選択の時代になって久しいのだから。
例えば、生や死に特別な意味はない(=偶然に過ぎない)、という見方について言及したが、それが「暗闇」に対して様々な定義付けを行っている宗教への反感に基づいているのだとしたら問題である。というのも、そうなると意味付けを行う宗教への反感から、(無意識的にであれ)恣意的にその反対となる答え(特別な意味の不在、偶然etc)を求めているのであり、実験などに基づく根拠のない「非科学的」なものに過ぎないからだ。結局それは、結論ありきの「かくあれかし」的なものでしかなく、理論的にも、そして感情的にも公正なものとは言い難い。
ところで、「生や死の意味について考えること自体がナンセンスだ」と言う人がいるかもしれない。この発言の前提となる概念などはおそらく様々だと思われるが、もしそれが、例えば「解明が非常に困難な事象を積極的に保留すべき」というような意図にもとづいているのなら、(特に学術的な意味合いで)なるほど妥当性を持った意見だろう。とはいえ、前述した如く、基本的に「わからないこと」に耐えられない人間であるがゆえに、その生や死という根源的な問題を、「解明されていないから不明」であるとして「暗闇」のままにしておくのは困難であると思う。
ここで、生や死の問題(特に後者)を一種の「ルーツ探し」ととらえてみてはどうだろうか?「ルーツ探し」としては、例えば生まれ故郷を覚えていない人がそこを一目見ようと欲したり、自分の実の親や兄弟を探して回るといった行為が行われていることなどを指摘できるだろう。その他にも、家系図による「先祖探し」や、言語、人種などにもとづいた民族的・部族的なものなど色々あるだろうが、ともかく様々な場面で「ルーツ探し」が見られるのは事実である。中には、自己の権威づけといった虚栄心によるものもあるだろうが、あくまで自己の由来に対する興味にもとづいた、より「純粋」な「ルーツ探し」も多いと推測される。このように、そもそも人間には、自らの由来に対して疑問や興味を持つ傾向が備わっていると言えるだろう。
こういった傾向に加え、今まで繰り返し述べてきたごとく、「暗闇」の喚起するマイナスの感情のために、人は「暗闇」が「暗闇」のままであることに耐えられなくなるという状況がある。 以上のことから、言わば興味と恐怖という二つの心理的な要請から、人は生や死の「暗闇」に囚われざるをえない側面を持っていると言える。そしてまた、(「暗闇」に対する解答として、宗教の代替物と人々が想定するであろう)近現代が特徴とする科学や「合理」は、今のところ「暗闇」に対し「わからない」という見解しか提示してくれないのが現状である。宗教に対する「無知」や、信者を単に「弱い」人間と捉えるなどといった一面的な見方から脱却し、いまだ生や死が「暗闇」であるという現状を正確に観察・分析するためには、以上述べた事柄を最低限念頭に置く必要があるのではないだろうか。
※もっとも、例えば宗教団体とのトラブルを処理・調停するような機関・施設が乏しい現状は、可及的速やかに改善されるべきだろう。すでに(無宗教も含めて)選択の時代になって久しいのだから。
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