久しぶりに中野駅へ降り立ったので、南口の方にあるカフェハイチに入る。
しかし、相変わらずエキゾチックな雰囲気だなあ・・・
早速ドライカレーのコーヒーセットを注文。時間は夕方近くなので自分しか客がおらず、地図を見ながらハイチの歴史やらトゥサン・ルーベルチュールやらを思い出しながらまったり。
きたぞきたぞきたぞ・・・
お味は相変わらず安心できる美味さというか、週に2~3回食べたくなるソウルフード的なものである。駅からそれなりに距離もあってそうそう行く機会はないのだが、家か会社の近所にあったら毎週のように通ってるだろうなあ。
次の訪問がいつかわからんので、大盛りをおかわりいたしやした(・∀・)
食後のコーヒーを飲んでる間にソロ客が一人来店。やはりドライカレーを注文して食している間に、ブランデー入りのコーヒーを飲み終えて退店した。
あ~食った食った。しかしこの周辺て隙間が多く残っててなんか雰囲気がいいなあ。北口こそ明治大のキャンパスができてかなり整備されたけど、南口はまだ開発が進んでない感じである。
帰りぎわ北口のブックファーストに寄り、『ぼくらの 完全版』・『さよなら絵梨』・『戦争はいかに終結したか』・『戦後日本の安全保障』の4冊を購入。近くのヴェローチェで前二者を読む。
「アウシュビッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と述べたのはアドルノだが、『ぼくらの』についても同じことが言えるように思う。すなわち、「『ぼくらの』以後、被害・加害の交換可能性に立脚しない勧善懲悪的なヒーローもの・ロボットものを描くことは野蛮である」と(これは「魔法少女まどか☆マギガ」と魔法少女を扱った作品についても同様だ)。
「沙耶の唄」という作品に絡めて「人類の存続に論理的な必然性はない」と述べたが、「生きる必然性がある」とか「生きる意味がある」というのは願望・希求であって、動かしがたい真実などではない。
人類という言わば「社会」のレベルでは自然法・憲法などを始め様々な法概念に基づいた法整備がなされており、それは共生のために極めて重要なものである(これは『反逆の神話』で書いたこととも繋がるが、多少長くなるので別の機会に譲る)。しかし、例えば「人権」なるものが証明不可能な擬制でしかない(それを疑うなら、無人島で生存権を主張し、勝手に食料が己の目の前に現れるか否か、と考えてみるとよい)ことに端的に表れているように、宇宙という「世界」規模においてはあくまで人類という狭い世界でのローカル・ルールに過ぎないのである。
これは単純なシニシズムのように理解してよい問題ではない。なぜなら、「しかしそれにもかかわらず、我々は生きることへの希求や身近な存在が幸福に生きることを望む感情を抹消することができない」ということもまた真だからだ(とはいえ、社会から疎外され尊厳の破壊が進むと、自己も他者もともに破壊しようとする衝動が生まれてくることは「無敵の人」の行動様式から観察できることである)。
そしてそのような希求と現実のギャップを理解すればこそ、アニメ版「ぼくらの」のOP「アンインストール」の歌詞である「この星の無数の塵の一つだと今の僕には理解できない」の意味はよりよく理解されるだろう。そしてまた、実は「等価」であることを頭では理解しながら、それでも身近な存在を守るために遠くの存在を滅ぼす行為に手を染めねばならないという悲劇性が伝わるのではないだろうか(これこそ原作終盤におけるコエムシの「ただの自然現象」・「未だ解かれない物理法則」発言の意味だろう。この点、わかりやすい「仕掛け人」を設定するアニメ版と設定しない原作では本質の部分でそのテイストが大きく異なっている)。
・・・といったことを久々に思い出しながら、完全版の最終巻を読み終えたのであった。
さあて、そいじゃいい時間にもなったことだし、帰って他の本を読むことにでもしようかの(・∀・)
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