前回「灰羽連盟:敬虔なるキャラの不在」の中で、「敬虔な人物が出てこない事が、実存というテーマにもかかわらず、その内容が『青臭い』といった理由で敬遠されたりしない要因の一つだ」という趣旨のことを書いた。またそれに対して「話師やクラモリはそう言えるのか」という反論がありえると言った上で、そのような見方が後付け的・二次的なものにすぎないとも述べた。
ここではその根拠を提示していこうと思うが、まずその前に「敬虔」という言葉に関する定義を明確にしておこう。敬虔とは、広辞苑によれば「うやまいつつしむこと。特に神仏に帰依して、つつしみ仕えること」という意味である。ただし私は、そこに「悪い人ではないがどこかナイーブな存在」というニュアンスを込めて使っている。これは私自身の捉え方ではなく、日本という環境においてはおそらくそう見なされる公算が高い、という推測に基づいている(「日本人の『無宗教』に関する覚書」も参照)。つまり敬虔なキャラは、必ずしも強い反発を生むとは限らないが、しかしどこか遠い存在として受け手に見なされてしまう、ということである(逆に言えば、だからこそメインキャラたちの生活感はテーマを受け手に届かせる上で極めて重要なのである)。そういう前提のもと、話師やクラモリの描かれ方について考えてみよう。
まずは話師から。壁を絶対視する物言いや、「巣立ち」を祝福すべきものとする言動は、なるほど確かにそれ自体は「敬虔」であるように見えるかもしれない。というのも、前者については、「非自明な世界」でも書いたように作中人物の世界の外側に対する希求が自然に思えるような演出がなされているからであり、また後者については「巣立ち」のはらむ喪失による痛み・悲しみという側面を軽視しているようにも受け取れるからだ。このように、断片だけ取り出してみればそういう解釈も説得力があるが、実際見ている時に受ける印象は違っているのではないだろうか。
どういうことか?回り道になるが、話師の登場するシーンから考えてみよう。ここでは、ラッカ達に奇怪なお面(?)を向けつつ、杖をついて鳥を追い払うというものであり、何だか底の知れぬいかめしい存在として描かれている(ここでは、ほのぼのとした話が進むのかと思いきや何か得体のしれない存在がいるようだ、と世界の奥行きを感じさせて受け手を引き込む役割を果たしている)。次に寺院で初の対面を果たすのだが、ここでは規律上話師のみがしゃべり、他の灰羽たちは羽の鈴を鳴らして返事を返すことしか許されていない。それはともすれば一方的・高圧的な印象を与える場面なのだけど、ヒカリのおっちょこちょいとラッカのミスにより、話師の威厳を損なわない形でコミカルに無害化されている(遠い存在になりすぎないよう描かれている)。そしてこのような演出の上で井戸から救出されたラッカとの対話がなされるのだが、極めて重要なのは、話師が灰羽のあり方を押し付けるのではなく、ラッカの悩みに寄りそい、ともに考え、気づかせようとする姿勢が明確に見て取れることに他ならない(オールドホームの面々でさえ彼女への接し方に悩み、踏み込めないでいたことに注意を喚起したい)。先ほど私は壁や「巣立ち」に関する話師の言動を取り上げたが、それらが出てくるのはこういう状況下であるため、たとえば「自分の悩みを理解できない遠い存在が価値観を押し付けてくる」というふうには受け手は認識しなかったのではないか、と私は推測している(正確にはラッカの視点を変えさせ悩みから解き放とうとしているのだが、そこまでは強く意識されなかっただろう)。この時点で、話師はもはや視聴者にとって遠い存在ではない。その言い方こそいかめしいけれども、彼は彼なりの仕方で相手を導き、救おうとしていることが理解されるだけだ。後は、「杖を返してもらわねばならないからな」といった照れ隠しの発言、「牢屋?ンフフ」といったお茶目な(笑)発言があり、また後に話師もまた「巣立ち」という「真理」に到れなかった者であることが判明し、同じ苦悩を共有する者であることがよりいっそう明確な形で理解される。しかしこれらの演出・設定は、おそらくそのキャラクターの確認・強化に近いものであり、視聴者のイメージにそれほど影響はなかったのではないかと思う。
以上のような演出がもたらす親近感(affinity)ゆえに、話師は「敬虔」とみなされるような要素を持っているにもかかわらず、視聴者は彼を遠い存在だと思わない。またそういうわけで、その話師を敬虔なキャラだと位置づけるのは(通時的な視聴者の印象とかけ離れるという意味で)断片的要素を取り出すような後付け的考察であり、少しもヴィヴィッドではないと考えるのである。
さて、クラモリには全く触れることができなかったが、もう出社まで時間がないwそれについては次回扱うことにしよう。
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