上空から俯瞰視点で描かれる世界は、欧風の完全なる非日常に見えて、タバコやスクーターのような日常的要素もふんだんにあり、にもかかわらず羽の生えた人々(?)がいる不思議な情景をしている。そこへ降下していく我々の期待感と不安は、うずくまった姿勢の少女と重なり合わさりながら、やがては古びた洋館の一室で芽吹くことになる・・・
これが2002年に放映された「灰羽連盟」の冒頭であるが、20年以上経って見返してもなお、これほどまでに作品の世界観を簡潔明瞭に表現したOPが他にあるだろうか、との思いにかられる。またこうして提示される世界観(日常性と非日常性の融合)は、とりもなおさず作品のテーマの根幹とも深く関わってもいるのだ。
以下、少し具体的に述べてみたい。
作中では、日常と非日常、癒しと痛み、笑いと哀しみ、孤独と絆といった、およそ相反する要素に思えるものを渾然一体のものとして非言語的に表現している。例えば頭上の光輪と背中の羽は、「灰羽」を異世界の中でも一際目立つ存在たらしめているが、その外観から最初に想像するであろう聖性は、二つの象徴的な演出によって裏切られる。
すなわち、光輪はパンなどに用いるホットプレートで焼き上げられ、しかも頭に定着せず静電気を誘発する(寝癖のようになる)という演出によって、その聖性は弱められ、むしろ微笑ましい特徴の一つ(類例で言えば「アホ毛」)のように提示される。しかし一方、小さくかわいらしい羽については、痛みと出血を伴う生々しい演出を経てそれが顕現するため、単なる聖性を超えて、名状し難い「異形」の要素さえ暗示されているのである(ここでも、言葉で説明するのではなく、ラッカが痛みに耐えかねて思わず舌を噛んでしまわぬよう、彼女の口中にレキが布を巻いた自身の指を差し入れるという演出など、非言語的にその痛みや深刻さを表現する演出が非常に優れている)。
今説明したような描写を意識して灰羽連盟の展開を見ていくと、そこには「視点の固定化に抗う演出」がふんだんになされていることに気付く。すなわち聖と思えば俗、俗と思えば聖、光と思えば闇、闇と言えば光というような具合であり、それは受け手の心証を宙づりにするのはもちろんのこと、そのような意識をもって作品に接することで、この世界に顕現し自分の居場所を求めて踏み迷う登場人物たちの心情と重なり合うものと言えるのではないだろうか。
それを最もよく象徴するのが作中歌wonderingだが、ここで重要なのは、その内容が個人的な煩悶(自身の存在理由や存在意義)に止まるのではなく、「大切な誰か」のことが常に歌われていることに注目したい。
というのも、この作品を理解する上で最も重要なことは、そのテーマが世界の謎を解き明かすことではなく、決して明らかにならない世界の構造や自分たちの存在理由に思い悩みながら、最終的には大切な人を見送りつつ、その存在を決して忘れない、という話だからである(そしてラッカたちが紡いだ絆や記憶は、最終話でもあったように次の灰羽たちへと引き継がれていくだろう。なお、今述べた点は極めて抽象的に思えるかもしれないので、補助線となる作品をいくつか紹介すると、サン・デグジュペリ『ちいさな王子』、映画「ショーシャンクの空に」で描かれる「ブルックスここにありき」・「レッドもここにありき」のシーン、あるいは深沢七郎『楢山節考』に収録されている「白鳥の死」などを挙げておく)。
ところで、このような作品描写・作品内容となった理由については、ある種の偶然性が働いていると思われる。というのも、原作者安倍吉俊の『灰羽読本』を読むと、作品世界については割と詳細に設定が作られていて、その気になれば世界の成り立ちを描くこともできたからだ(例えばDVDに付属するリーフレットでは、灰羽たちがどういう来歴で生まれるかまで説明されている)。
しかしおそらく、13話という制約からその詳細を言語的に説明したり、あるいは世界の構造そのものを明らかにする展開を避けた結果、受け手を作中人物と同じく宙づりの状態にし(=神の視点には置かず)、それゆえ視聴者たる我々は作中人物たちによる自己の存在理由への疑念や煩悶を追体験することになったと思われる。
さらに言えば、そういった懊悩が、個人的な探究(インナースペース)とか神-自己との二項関係(世界の真理)などではなく、あくまで身近な他者との絆や相互扶助の中で、時に迷走・衝突しながら育まれていったことに注目したい。
これについても、特別な意図に基づいていない(狙ってやったわけではない)可能性が高い。『灰羽読本』などを見るに、原作者が物語をドライブさせていく上で「こういう人物がいたらおもしろい」といったキャラクターを造形・配置して彼・彼女らを絡ませていき、さらにそこから自問自答のような言語的説明を切り詰めたことも相まって、その苦悩や問いが私小説的な没個人的視点ではなく、あくまで他者との開かれた関係性の中で展開する印象が強まったものと思われる。そしてそのような特性は、前述したようなwonderingの歌詞内容とも相まって、この作品の特性を決定的なものにしたのではないだろうか(なお、作中ではwonderingが暗示的に短い時間流れるだけである点にも注意を喚起しておきたい)。
このような見方が正しいとすれば、今述べたような「宙づり状態により必然的に生まれる苦悩・探究」・「非言語情報のふんだんな提示」・「他者との開かれた関係性」の3つによって、まさに灰羽連盟は、一般に「宗教」とか「哲学」と呼ばれる領域の(もしくはそれが求められる理由の)根源的にあるエートスを簡潔明瞭に描き出した傑作と言えるのではないだろうか(必ずしも意図せざる結果として傑作になった、というのはPCゲームでジャンルこそ違うが「沙耶の唄」と似ているところがある)。
そして私が灰羽連盟を今もなお全く色あせない作品だと思う理由の一つは、人間が存在する理由に決して答えはなく、ゆえにこれから技術がどれだけ発達しようが、本作で描かれるような煩悶から人間が解放されることはないからだ。また、仮にその問いを無益だと断念してAIなどが提供する動物的快楽に耽溺したとしても、人間から所属の欲求や承認の欲求が(少なくとも短期的・全面的には)消えることがない以上、他者との絆であったり、共同性の希求もまた消え去ることはないと思うからである(なお、このタイミングでは「灰羽連盟」のレビューを10年ぶりに書いた理由は、「日本人の宗教に関する俗論において、共同体という観点が欠落している」と指摘したことが大きく関係している)。
というわけで、もし未見の方がいればぜひ視聴をお勧めしたい作品である。
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