灰羽連盟を再考する上で、「なぜ灰羽連盟の実存の描写が違和感なく受け入れられたのか?」という視点を最も重視していることは繰り返し述べている通りだ。
その理由を一言で表せば、「灰羽連盟覚書2」でも書いた「論理によらないイメージ形成、あるいは納得の形式の仕方が秀逸」ということになるが、それゆえ短い話にもかかわらず消化不良な印象がなく、納得が得られるのだと言えるだろう。また論理によらないイメージ形成の一環として取り上げたのが「敬虔なるキャラの不在」であり、簡単に言えば灰羽を始めとした登場人物たちの生活感が灰羽たちの苦悩などを風景化しない効果を上げていると書いた(その他、番外編ではレキの羽をヒョウコが「へー羽黒く染めてんだ。かっこいー」と言うシーンが出てくるが、これはスティグマを単なるディファレンスに変換する接し方として興味深い)。
そのように話を展開している中で、次に「話師とクラモリは敬虔だと見なせるんじゃないか?」という問題が持ち上がり(もとい持ち上げw)、前者については「灰羽連盟のキャラ造詣について」で親近感(affinity)をもたらす演出がそのような印象を与えないと書き、後者は「クラモリの描かれ方」において行動そのものを抽象化すればその無条件の愛や自己犠牲の精神は敬虔とみなせなくもないが、(1)他の灰羽たちの描かれ方、(2)敬語や「さん」付けが(基本的に)使われないこと、(3)相手に決定権を委ねる言い方をしていること、の3点から視聴者はそのように受け取らなかっただろう、と述べた。
さて、今取り上げた話師とクラモリの記事は、「敬虔なるキャラの不在」でも書いたように蛇足、と表現するのが言いすぎなら詰将棋のための詰将棋であり、むしろ灰羽連盟の持つ魅力やメッセージ性を覆い隠してしまうことは私も理解している。しかしどのような考察が、仮に論理的・説得的に見えても、作品を見えなくしてしまうのかを示すネガの効果を期して、「クラモ理論編」の続きを書いていくことにしたい。
「クラモ理論編」において、彼女を「敬虔」とみなすのはレキの視点に引きずられているだけにすぎない、と述べた。しかし百歩譲ってクラモリを敬虔な人とみなしたとしても、彼女は敬虔さゆえに救われたであるとか、敬虔でなければ(灰羽は)救われないという見方をすることはできない。以下、その根拠を記す。
結論から言うと、その要因は二つあって、一つ目はクウの「巣立ち」、そしてもう一つはレキの「巣立ち」(≒「救い」とここではしておく)の描き方である。前者について説明しよう。クウの「巣立ち」は彼女が(年少組を除けば)最年少であることやその天真爛漫な振舞いもあって、かなり意外性がある。これは印象論ではなく、実際レキも(クラモリの話より後だが)「何が平等だ!クウは一番幼かったんだぞ!」と話師に食ってかかっているシーンがあり、つまりその意外性(とそれが他者にもたらす偶然性の印象)は製作者側も意識的であったことが窺える。そしてこのようなクウの「巣立ち」がクラモリのそれに先んじているため、「敬虔=救い」といったイメージを視聴者は描きえないわけである。
このような前提があるために、仮にクラモリが敬虔だと感じられたところで、それを「巣立ち」の要件や灰羽の理想像まで一般化する人はいないと思われる。そういう認識の上であえて理屈をこねくりまわすと(笑)、後者の要素、つまりレキの「巣立ち」がクラモリのそれのイメージをリセットする働きをしていることが重要である。レキは、「巣立ち」≒救われるためというよりはクラモリに会うために、彼女の言いつけを守りその行いを受け継いだ(模倣した)という経緯がある。よって彼女がそのまま救われていたら、クラモリ的なあり方(=ペルソナ)こそ正しいことになり、救われなければそれに反する内面が否定されたことになり、結局はクラモリ的あり方が肯定される結果となったと言える。またそれは、かつてのネムがそうだったように(クラモリとは違って)条件付きの受容でしかなく、自己承認と深く関わる「罪の輪」の話とも矛盾する内容となり、「巣立ち」や救いは視聴者にとって遠いものとしかならなかったと考えられる。
それを念頭に置いて、最終話のレキとラッカのやり取りを思い出してみよう。レキに本心をさらけ出させ、表層=クラモリ的ペルソナしか(ミドリも言うように)見えていないラッカを拒絶させた上で、そのラッカにクラモリの絵を見せてレキのありのままの姿を肯定させるというシーンは、正直なところ演技過剰な印象を受ける。なるほどレキのモノローグ部分こそ、(悪)夢の描かれた暗い部屋=精神世界の描写と相まって迫力があるし必要不可欠だと思う。しかしラッカが一度助けるのを諦めてまた戻る下りは、穿った見方をすれば「どうせ最後は受容するんでしょう?」「わざとらしいやり取りしてないでその場で受け入れろよ」と言いたくなる冗長なシーンとして批判も可能だ。しかし裏を返せば、いささか過剰でもレキの救われ方、つまり「深層をこそ受け入れられる=クラモリ的なあり方が救いの要件ではない」ことを製作者側は強調したかったのだと言えるし、またそのような描き方ゆえに、製作者はもちろんのこと視聴者もまたクラモリ的あり方(敬虔さ)=「巣立ち」の要件と感じることはなかったと推測されるのである。
結論。クラモリの振舞を「敬虔」とみなすことは可能であり、その場合彼女の「巣立ち」は必然的な救いであるとともに、またそのようなあり方こそが「巣立ち」≒救いの要件だと考えることもできる。しかしながら、クラモリの「巣立ち」に先立つクウのそれと彼女のポジション(描かれ方)、そして最後を飾るレキの「巣立ち」のあり方を考え合わせると、むしろそのような自らを縛る規範意識や檻(=罪の輪)からの解放こそが「巣立ち」の要件であると見なすことができ、またそういう方向性を製作者側も強調しようとしていたことが窺える。そしてこのような描き方ゆえに、作中での定義付けはもちろんのこと、視聴者のイメージとしても敬虔さ=「巣立ち」・救いの要件としては認識されなかったのではないかと考えられる。以上。
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