「客観」という名の真理への到り方は、ヨーロッパにおいてはイデア論を唱えたプラトンの演繹的手法、世界を分類・分析したアリストテレスの帰納的手法の対立にまでさかのぼることができる(もちろん、そもそも「万物の根源」という問題設定が、民族・部族によってバラバラな神話的世界理解から離れ、別のアプローチから世界の真理に到達しようという試みではあったのだが)。
そこから中世の普遍論争で見られた実在論と唯名論の対立があり、これは神を否定できない以上神学的な装いをしてはいるのだが、唯名論からはオッカムやロジャー・ベーコン的な実証を積み重ねることによる法則の発見、すなわち帰納的アプローチによる理論構築(ここでアリストテレス哲学と神学を融合した「スコラ哲学」なる言葉を想起したい)という、近代科学に繋がる手法が積み重ねられていった(極めて雑駁に言うと、経験知によらない演繹のアプローチならば、世界の理は『聖書』に書いてある通りになるのであって、そこから先には進みようがない。なお、オッカムらの蓄積の背景にはイスラーム世界からの知見が大きな影響を与えたことも念頭に置く必要がある=「12世紀ルネサンス」)。
その後、近世のデカルトを代表とする演繹的アプローチ=大陸合理論と、フランシス・ベーコンを代表とする帰納的アプローチ=イギリス経験論という二つの大きな潮流が生まれた。ヒュームが懐疑論を唱え根源的な部分に反駁を加えることで暗礁に乗り上げたが、カントがあるレベルの認知を断念することで二つの潮流を統合し、ドイツ観念論として結実する。
それ以降については、誰もが合意可能な「客観」は存在しえないし、また「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というスタンスが確立していくが、その一方で個々人が全く異なる認識をする=合意不可能な主観の乱立というわけではない点に注意を要する。つまり、間主観性とその構造理解が継続して議論されている。
こうして、客観的真理というものが断念され、それが政治や経済、芸術といった領域にまで広がっていたマンハイムの20世紀前半において、イデオロギーと党派性の問題、あるいはそれらの分析という仕事は、極めてアクチュアルな重要性を持っていたと言える(逆に、サイバーカスケードや多元文化主義などをすでに経験し分断がある程度自明のこととなっている現代においては、その切迫感を当時に近いレベルで認識することは難しい。ただ、サンスティーンやジョナサン・ハイトの分析などは、当時の不安や分断が今にも通じる部分が多々あることは理解されるだろう)。
1.客観的真理はすでに断念されるべきものであるにもかかわらず、我こそは発見せりと喧伝する者たち
2.「真理の多様性」によって不安になり、むしろ1のようなアジテーターに飛びつく一般大衆(ル・ボン『群集心理』)
そしてこの構造が、ナチスドイツや共産党独裁のような全体主義を生み出していく原動力となった(この予兆については、本書の中でも繰り返し言及されている)。
例えばP164。ここの「絶対的なもの」の希求にナチス、そしてそれの支持者として、フロムの指摘した没落中間層や丸山真男の亜インテリを当てはめることが可能であろう(生活が極めて困窮している場合、イデオロギーよりも食い扶持である。これはフランス革命で土地を無償で得た農民たちが反動化し、ロベスピエールを失脚させるテルミドールのクーデターに繋がっていたことを想起したい。しかし今述べた没落中間層や亜インテリという存在は、不安や鬱屈はあれど多少の経済的余裕があり、また自分は他人よりものを知っているという自負が彼らを陰謀論的な世界観に誘うのであろう)。古谷経衡『ネット右翼の逆襲』なども参照。なお、こういった階層による支持言説の相違は、聞き取り調査によるデータをまとめた『新・日本の階級社会』も参考になる。
なお、アジテーター側から見ると、イデオロギーという言葉を最初に発したとされるナポレオンのスタンスは大変参考になる。彼はそれを「机上の空論」「現実に役立たない空理空論」的な意味で使用したわけだが、これは彼が発した次の言葉を想起する時、最もよく理解されるだろう。すなわち、「私がヴァンデー地方で農民反乱を鎮圧できたのは、自らカトリック教徒になったからであり、エジプトに攻め入って根城を築くことができたのは、自らイスラム教徒になったからだ。もし私がユダヤ民族を統治することになれば、ソロモンの殿堂を再興させて見せるだろう。」と。
このようなスタンスはボナパルティズムという政治手法でも表現されるが、こういう彼の日和見主義的な言説で多方面から支持を取り付け自身の人気を獲得するやり方からすれば、ある特定の基軸に基づいた政治理念など、まさに机上の空論でしかなかったわけである。
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