山田康弘『足利将軍たちの戦国乱世』:日本社会の権力構造を読み解く一試論として

2024-08-06 11:56:47 | 本関係

 

 

支持率が20%前後の岸田内閣が、今もなお政権を運用できているのはなぜだろうか?

 

という疑問に対しては、まずは議院内閣制(代議制民主主義)の仕組みが言及されるだろう。そして次に、総裁選だとか、宏池会や経世会、清話会といった派閥の構造、そして政党政治の歴史的経緯などにも触れることになる。ところで、こういった現代の政治構造の仕組みを、子どもや外国人にぱっと説明できる人間は、自分の周りの人間(家族や友人など)を想像した時にどれだけの割合いるのか?という問いであり、実はきちんと説明できる人間は少ないのではないだろうか。

 

・・・といっても、ここでは現代政治の話をしたいのではなく、自分たちが今生きている社会の仕組みでさえ、よく理解してないどころか、それほど深く考えたことすらないケースは珍しくないのではないか、ということだ。そう考えてみた時に、数百年も前の時代の権力構造や社会構造が、ぱっと見で我々の理解の範疇を超えているのは別に驚くべきことではない。

 

逆に、そういった当時の世界観に思いをいたすこともなく、歴史教科書で名前が羅列されているのを暗記して理解した気になったり、あるいはゲームを通じてただの陣取り合戦でもやっているのを国家運営やら国家統一だと勘違いする習慣がつくと、例えば摂関政治(とその実態)であるとか、北条氏と鎌倉幕府のケースのように、「あいつらは力はあったのになぜトップにならなかったのか?」という具合で、レジティマシー(正統性の概念)などを無視した考え方を平気でしてしまうのである(もちろん、違和感や疑問を持つこと自体はスタートラインとして全くのところ正しいのだけれども)。

 

ちなみに、正統性やら手続きを無視して「力こそ正義」みたいな行動をなぜ取らないかと言うと、しばしば袋叩きに遭ったり、あるいは相手から信頼されず同盟構築などに支障をきたし、最終的には自分が不利益を被る(からやらない方がいい)ということを、歴史的事例や現実的な情勢判断、部下の助言などを通じて理解しているからである(ちなみにこの話は越相同盟などに触れた「『勝てばよかろうなのだ』はアホの発想」という記事を参照されたい)。

 

ところで、先の「力があるのになぜトップにならないのか?」といった発想をした場合に、最も疑問に思われる存在の一つは、室町後期の足利将軍であろう。というのも、応仁の乱や享徳の乱を経て彼らの権力は大きく弱体化し、さらに地方で有力者たちが台頭してくる中、もはや足利将軍とは中身のない傀儡的存在になっていたように見えやすいからである(これは戦国時代がクローズアップされる際に、織田信長や武田晴信といった戦国武将こそフォーカスされるが、室町幕府や将軍はあくまで添え物的、あるいは「踏み台」として登場するような描写の偏りも関係していると思われる)。

 

今回取り上げる山田康弘の『足利将軍たちの戦国乱世』(中公新書)は、足利義政以降の主要な出来事を、各将軍に視点の軸を置いて編年体で取り上げつつ、その役割が実態としてどのように機能していたのかを明らかにしようとした著作である。

 

このように書くといかにも堅苦しい内容と思われるかもしれないが、新書という形態であり、かつ著者自身も前書きで述べているように初学者にも読みやすいようかなり嚙み砕いたり端折ったりした描写がなされているため、複雑怪奇で取っつきにくい室町後期の歴史を理解するための入門書として、極めて有用な著作と言えるだろう(ただし、不確実な部分を何となくの予測でふわっと流している部分も少なくないので、あくまで入門書としてである)。これはおそらく、室町後期にはいくつも権力が分散して(そもそも将軍が京都にいないしね)どこに注目すべきかが難しくなる中、あくまで足利将軍にフォーカスして定点観測を行ったことが大きいと思われる。

 

その上で、単に「足利将軍の立場から見た戦国時代」というだけでなく、彼らが戦国大名たちからどのように必要とされていたのかを分析し、戦国武将たちを現在の主権国家、そして足利将軍を国連に見立てるような試みはなかなかに興味深いものだった(横並びで争いの決着をつけ難いか、もしくはそれだと大きな損害を伴うことが予想される場合、別の審級、例えば天皇やらローマ教皇などを持ち出すことで「手打ち」をすることはこれまでも行われてきた。くじ=神判で将軍を選ぶとか、起請文で神にかけて誓うという形式も、ある意味こういった発想と関連している)。

 

このように、ミクロな視点では適度にスリム化された室町後期の通史(畿内を中心とした歴史概観)、マクロな視点では将軍の存在意義を巡る権力理論という形で、読者にわかりやすく問題意識をもってもらうための著作として、有用なものだと言えるのではないだろうか。

 

ただ、それに関連して、一つ改善すべき点として私が考えるのは、足利義輝による守護や御相伴衆など「濫発」とも形容できる官職任命とその背景について触れていないことである(本来はそういった官職を到底得ることができないような家柄の人々にもそれを与え、当時の公家などがその風潮を嘆く、といった現象が観察される)。もちろんここには、自己を権力の正当化装置とさせることにより、相手を権力のヒエラルキーの中に取り込む=将軍権威の再強化という狙いがあるわけだが(こう書くと冊封体制みたいだな)、しかしその結果として、本来ガラスの天井のようにも感じられていた家柄などの壁が、比較的越境可能なものとなり、それが下剋上的雰囲気を醸成し、戦国時代の風潮を加速させることにもつながったのである。

 

つまり、足利義輝の政策の背景と悪影響をまとめるなら、足利将軍家が持っていた正統性付与の機能と(これを「権威」と言い換えてもいい)、将軍家がそれを十分に理解していたこと、一方で苦境に伴うその機能の過剰な行使が、自らの基盤を掘り崩す結果となった、というあたりになるだろう。よってここに言及しておけば、室町将軍の機能がどのようなものであったか、それを有力者たちがどのように欲したか(利用価値をどう思っていたか)がわかるとともに、その限界と破綻の経緯についても、より理解を深める事例となったのではないかと思う(少しだけこの話を広げると、実は問題が起こるにはそのずっと前から原因の種が撒かれていることはルワンダ虐殺など歴史上にしばしばあって、ゆえに起こってからのことだけに注目して分析・評価すると偏ったものになるケースも少なくない。その意味で、足利義政の苦境を知るには足利義教の強引な独裁政治とその影響を見ない訳にはいかないし、足利義昭が「悪あがき」ともとれる行動をせざるを得なくなった事情を理解するには、そうなるに到った義輝の政策にも目を向ける必要がある、という話である)。

 

室町後期の権力構造を現代政治と結びつける導入などは、いささか牽強付会な印象も受けないではないが(とはいえなるほどと思う部分もあったのでこの記事でも活用してみた)、試みとしては大変興味深い本である。室町後期の足利将軍の存在意義だけでなく、日本における権力構造のあり方を考える上でも、一読の価値がある一冊ではないだろうか。

 

以上。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« カンボジア旅行事始 ~成田... | トップ | 草下シンヤ、裏社会、構造把握 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本関係」カテゴリの最新記事