天下布武を志すならまず近畿よりはじめよ(適当)、ということでやってきた熊野本宮大社。他の神社と同じく実に自然豊かだが、とにかく8月の紀伊半島が暑すぎて、感銘を受ける余裕もなく行軍で精いっぱいという状況なのは前回述べた通り。
そんな中、八咫烏の由来についての説明を発見。ヤタガラスってあの垂れ目で人魚肉大好きでちょっと腹黒い発言するヤツのことかいな?それはぜひ崇め奉らねばなるまひて(違う)。
しかし、ここにも書いてあるが、「烏」という存在の捉えられ方がどのように変化してきたのか、そして地域によっての捉えられ方の違いはどうであるか、という視点は興味深いね。黒猫なんかもよく具体例に挙げられるけど、考えてみれば人間の妄想力は甚大なもので、例えばかつての日本では、早くに歯が生えた子や特異な位置に歯が生えた子を「鬼子」として忌み嫌い、時には*しさえしたとも言われている(例えば近藤直也『「鬼子」論序説-その民俗文化史的考察』など)。
まあ日本では普通に間引きが行われていたので、何か「異常」と思われる要素があれば、その子を「わざわざ」生かしておくこともないという発想もあったのだろう(まあ戦後ですら「ひのえうま」で出生率が急落したことからすれば、戦前まして前近代は推して知るべしである。こういうのは日本だけが特別に遅れているとか進んでいるとかいう話ではなく、各地域で近代的価値観からすれば眉をひそめたくなるような思考・行為は行われていましたよと)。
俺としては、そういう人間の想像力の在り方とその由来に興味があるので、フラットアーサーや「衛星」の観念、宗教的世界観(禁忌)の由来などを調べてみたくなるわけでありマス(都市伝説や偽史、陰謀論なども同様)。
ニンゲンってオモロー(死神並感)!
などなど考えながら本宮を後にし、次なる目的地へ移動。
これが何だかわかるかい(©松尾象山)?
周辺が水田・森・川となっている中、そびえたつ巨大な鳥居。新しさも相まって全く異質なその建造物は、淡路島で見た巨大な仏像と同じくらいにはインパクトのある存在だ。
ここまでくればその威容が理解できますかいね?いや、あまりにも浮きすぎて、厳かな気持ちよりも先に、ハリボテか何かを見せられているような感覚に陥るのは俺だけやろか?
鳥居の先でしばしまったり。
改めて思うが、一つの建物とかではなく、周辺一帯が聖域を構成する日本の宗教施設の特徴は個人的に好きなんよねえ。手っ取り早く連想できるセム的一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラーム)だと、あくまで「建物の中」が俗世から切り離された特別な世界で、その周辺は違うという印象がある(まあアジールの概念も含めて、それも中世~現代まで不変なのかと言われると不勉強にして断言は難しいが)。
一つは日本の場合自然信仰(アニミズム)が先にあって、そこに宗教施設を作ったからだという説明ができるとは思うが、とはいえ昔行った中尊寺のように、神道でなくても明らかに周辺一帯が聖域としてみなされている事例もある(まあそもそも所有地云々という問題もあるだろうけど)。
この辺の観念も時間があったら調べてみたいもんだなやと思いつつ、少し周辺を歩いてみることにした。
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