このゲームを私が最初にプレイしたのは大学一年(2000年)だったが、その時点ですばらしい作品だという確信があった。
そういうわけで周囲にもコ〇ーによる布教活動(笑)をしてもいたわけだが、そのうちの一人であるSさんは、「終末」を駄作だとするネットのレビューを見ながら、「そりゃそうだよなあ」と評した。なぜそういう評価になるんだろうと首を傾げはしたが、その時は特に突っ込まなかった。しかし、およそ二年後に「君が望む永遠」を傑作と評してサークルの女の子にプロモートまでした(笑)ジャンノ=ダルク氏が、終末への不満を「行動しようよ(苦笑)」という一言で述べた時、一体この作品に対して彼らが何を望み、失望したのかを理解した。
まず、そう感じる理由はよくわかる。なぜなら、「終末」はそういう状況を救ったりサバイブしたりする、言いかえればドラゴンヘッドやAKIRA的な要素は皆無なので。その他、砂ぼうずや北斗の拳など枚挙に暇がないが、要するに一般的な「世紀末モノ」の持っている特徴が「終末」では完全に欠落している、ということである(なお、「世紀末モノ」の隆盛から時間が経っているためか、砂ぼうずはシビアな環境の話をライトな雰囲気で描いている)。だから、「次の週末に世界は滅亡だ」というキャッチコピーを持つにもかかわらず、「行動」を起こそうとしない主人公たちに苛立つのはわかる。
しかし一方で、理解できないことがある。ラジオを通じて行動する「暴徒」に言及しているのは象徴的だが、「終末」自体がそういう「世紀末モノ」とは一線を画していることを明示している。つまり作者はそういう「過ごし方」も踏まえた上で、あえて日常を続ける(続けざるをえない)人々の様を描いているのである。
にもかかわらず、「(世紀末モノのように)行動しようよ」と非難するのは、たとえて言うならイタリア料理の看板を掲げた店に入り、「なぜ中華料理が出ないんだ!」と文句をいうようなものではないか(ジャンルの閉塞をまねくのであまり使いたくない喩えではあるが)?
評者たちはそのことに気づいているのか?気づいていないとしたらなぜなのか?・・・「君が望む永遠」の主人公に対する評価とともに、俺を強くとらえていた疑問はそのようなものであった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます