終末の過ごし方~「達観」と無害化~

2011-10-10 18:34:29 | ゲームよろず

しかし、だ。いくらラジオというメディアを通じてしか「暴徒」を描かないといった演出をしていると言っても、作品の側に誤解を招く要因はないのだろうか?

 

結論から言えば、間違いなくある。その主要因は、深刻な葛藤が描かれていないことに他ならない。たとえば、香織(メインヒロイン)のエンディングでは家族と一緒にシェルターに避難しようとするところへ知裕(主人公)が来て、終末を二人で過ごさないかと言うシーンがある。普通に考えれば、ここで親ないし周囲の人間と衝突しないはずがない(ところで、これは「行動」のうちに入らないのであろうか?)。なるほど確かに我々は心乱さずこのシーンを見られるかもしれないが、それは絶対的な終末を「神の視点」で知っているからにすぎないからであって、一縷の望みをかけて必死に避難する人間とは当然コンフリクトが起こってしかるべきだからだ。にもかかわらず、そういった描写がないために、主人公たちが単に諦めている(開き直り、自己完結と言ってもよい)だけに見えてしまうわけだ。主人公と重久(パンおやじw)のやり取りを聞けば、彼らに葛藤や苛立ち、苦悩があるのは明らかとはいえ、今述べたような要素は無視できないだろう。もっとも、具体的に指摘したレビューを見たことがないのでそこまで分析していたとは思えない。また、俺はこれをもって演出上の失敗だとは考えていないが、その理由は別の機会に述べることにしよう。

 

その他、シナリオが玉石混交である点も悪影響を与えていると思われる。たとえば大村いろはについて考えてみよう。彼女は、ペースメーカーをつけて生活する、つまり「死」を間近に感じたことのあるキャラとして描かれている。そういうわけで終末に際しても達観というか超然とした態度を崩さないのだが、これは受け手に伝わらない内容という意味で失敗しているシナリオだと俺は評価している。

 

例を挙げて理由を説明しよう。たとえばあなたが「100メートル走で10秒切った」という話を聞いたら、それをどのように評価するだろうか?「オリンピックで10秒なんて今さら記録でも何でもないだろう」と言う人がいるかもしれない。しかしそれが50年前ならどうか?あるいは高校生なら?どちらも驚愕と興奮をもって話題に上った(上る)ことだろう。要するに、「偉業」もまた文脈依存的なものにすぎないのである。「終末」は世界設定が意図的・戦略的にぼかしてあるが、それは文脈(状況)が不鮮明であると言いかえることができる。ゆえに、その状況において死を達観した人間を書いても受け手にスゴさは伝わらず、下手をすれば泰然とした様が「滅びの美学」的なものと結びつき、美化と無害化をもたらしてしまうだろう(他方その不鮮明さは、一介の市民である主人公たちが何をしていいかわからず日常を繰り返す様子を自然なものとする効果を生みだす)。なるほど、いろはのように達観している人物は終末に際して様々な反応をする人間がいる中で際立っており、終末への対し方(過ごし方)の一つとして登場させる狙いはわからなくはない。しかし、それを描くのに適した環境(設定・描写の分量)がないため、その特異さがきちんと伝わらないばかりか重大なミスリードを生じさせかねない・・・これがいろはシナリオを失敗していると評価する所以だ。

 

しかしそれでも、「終末」に流れるエートスを理解することは(深読みなどなしに)十分可能だと考える。それは繰り返し述べているようなラジオの演出やマルチスレッドの採用といった表現形式の工夫もあるが、何より緑シナリオの存在が大きい(cf.レビューの見出し画像)。そこで次回は、なぜ緑シナリオが重要な役割を果たしているのかを説明していきたい。


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