YU-NOと情念2

2011-09-28 18:23:55 | YU-NO

 

YU-NOと情念」の続き。詳しくは前掲の記事で述べたので繰り返さないが、ここにおいても分析というよりむしろその特徴を再発見(or再確認)している感じになっている。まああえて言うなら、SF的な設定や展開のみによって話を進めていくのではなく、そこに様々な情念を絡めるからこそ様々な人に受け入れられる作品になっている、ということになろうか。とにかくも、仮にリメイクされるようなことがあったら機体ごと予約して購入する・・・・と自分が唯一確信する不動の最高傑作であることは間違いない。

 

<原文>
前回YU-NOの「情念」に気付く過程について述べたので、今回はその具体的内容について書くことにする。


YU-NOという作品は前半におけるSF、後半におけるファンタジーっぽい内容のため、わざわざ強い動機付けがなくても旅や冒険という行為が普通に成立する。科学的な説明といった方面に目が行きがちである。しかし物語の深遠に到達するには、その動機付けに目を向ける必要があるのだ。


そもそもたくやが並列世界を旅するのは何のためであったか?プレイヤーに対しては「宝玉を8個(サターン版なら10個)集めるため」という(ゲーム的に)わかりやすい目的が提示されている。しかしその先にある目的は、自分の父親、すなわち有馬広大に会うためであったことを忘れてはならない。そしてたくやの広大に対する想いの強さは、作中の回想などを思い起こすだけで十分であろう。


また、デラ=グラントでの旅はどのような意味を持つのであろうか?最初、それは元の世界に帰るためであった。しかしセーレス亡き後の旅は神帝への復讐を目的としたものであり、後にはユーノを探し出すという目的が加わる。この旅にある情念の強さは、収容所におけるたくやの不撓不屈の精神・振る舞いを思い起こすだけで十分だ(たくやは反骨精神の強い人間であり、それゆえこの場面もその一環として流してしまうおそれがあるが、根底に先に述べた目的への情念があることを忘れてはならない)。そして最後の最後、事象の波に飲み込まれたユーノを探す旅…これがユーノへの深い愛情に支えられていることはプレイヤーには自明のことである(少々演出過多な気もするが、YU-NOのシンクロシーンにおけるたくやの振舞を思い出すだけで十分だ)。


以上のように、YU-NOにおける旅や冒険は、いずれも誰かを捜し求める強い感情、すなわち「情念」に裏打ちされてのものであり、単なるロマンチシズムや物語を成立させるためだけにこしらえられた「旅のための旅」とは一線を画すものと言える。


しかも、このような情念はたくや一人だけのものではない。例えば亜由美の研究には、(生活の糧を稼ぐためだけでなく)広大の遺志を受け継ぐという意味があったし、有馬広大の旅もまた、単に真理を追求するためではなく、ケイティアに巡り会いたいという希求に基づいていたのであった(※)。


以上述べたところで、YU-NOがいかに「情念」によって突き動かされている作品かは最早明らかであろう。しかし中には、YU-NOの「情念」について長々と書いたことに首を傾げる人がいるかもしれない。基本的に無駄を嫌う私にとってその疑問は不本意である(過去ログ「ゲームレビューに関して:意味のある突っ込みと無い突っ込み」)から、最後にYU-NOにおける「情念」の重要性を述べてこの記事を終えることにしよう。


YU-NOの「情念」を理解しようとしなければ、その基調の一つとなっているタブーは単に「義母とヤっている」、「娘とヤっている」といった記号論に堕するであろう(要するにシチュエーションの問題に過ぎない)。タブーを犯すこと自体は、単に規範へのアンチテーゼにしかならないのだ。しかしそこに、時(あるいは事象)を越えてこの世の果てまで探し求める想いの強さ、すなわち「情念」があることを理解した時、YU-NOのタブーの深みが初めて理解できるのではないだろうか(※2)。


「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」という題名…そこには「この世の果て」というSF的、ファンタジー的側面が表れており、この作品を傑作ならしめるには実にこの要素だけでも十分である。しかし「恋を唄う」、すなわち「情念」によってこの作品が成り立っていることを理解しなければ、タブーを含めた恋愛や、事象(運命や偶然)に翻弄される者達の人間ドラマを理解する領域まで踏み込むことは決してない。そこに思いを致した時、YU-NOは単なる傑作ではなく、まさに「魂の唄」としてあなたの前に立ち現れることだろう。



こう考えると、最後のエンディングが本来広大とケイティア二人のためにあるべきものであることが理解される。なぜたくやとユーノがその代わりを務めることになったのかは不明だが、それは別の機会に扱うべき問題だろう。

なお、真理の探求もまた「情念」となりうる。絵里子の相方、アーデルが事象への旅を試みたのはそういう類の「情念」に基づいていた。


※2
亜由美が広大の遺志を受け継いで研究していたこと、あるいは彼女が死ぬ間際に言った「広大さんは今でも奥さんを愛していたの」というセリフから、彼女がいかに有馬広大を深く愛していたかがわかる。これを理解して初めて彼女の喪失の哀しみ・苦悩の深さを理解できる契機が生まれるし、またそこに数々のプレッシャーが圧し掛かって彼女が追い込まれていく必然性もわかる。そこまで詰めていくと、たくやとの関係に到るのが単なるタブーの侵犯ではなく、数多くの事象に基づいた必然的なものであったと初めて理解できるのではないだろうか。そこまで考えて初めて、タブーへの挑戦と言うだけのハリボテではなく、「情念」に基づいた人間ドラマという深み、必然性が生まれるのである。

また蛇足だが、このあたりでやはりタブーに踏み込んだ某ゲームの「リフレェン」を思い出してみるのもおもしろいだろう。

************************************************************************
なお、画像はセーレスを使わせてもらった。なぜなら彼女こそが、YU-NOという作品に対する私の「情念」を最もよく体現しているように思えるからだ。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 沙耶の唄の衝撃:人はなぜ「... | トップ | YU-NOとタブー »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

YU-NO」カテゴリの最新記事