「沙耶の唄」に関しては、作者の期待した読みを批判する形で作品の演出的な特徴を述べてきた。それは「異物に対する同一化傾向」の記事で一段落したから、今度は整形と絡めて容貌と認識の問題を考えてみたいのだが、参考までにずいぶん昔に掲載した記事を(一度削除したが)載せておきたいと思う。
ただし、ここで言っている「人はなぜ『美しい』がわかるのか」という疑問はイデア論的な方向に行く可能性が高いため、そのようなアプローチは避けるつもりである。
<原文>
※このゲームのレビューに関しては「ゲームレビュー」過去ログの「沙耶の唄」レビューを参照。
沙耶の唄はシナリオ、雰囲気、音楽、伏線といった要素全てにおいて傑出しているが、さらにテーマという点においても多くの、そして深い題材が刷り込まれている。その一つとして、「認識論」がある。こう言うと、何やら小難しい話がこねくりまわされるのかと警戒するかもしれないが、「沙耶の唄」はずっとシンプルなカタチでそれを提示している。ネタバレになるので詳しくは書かないが、こう言うと適切に伝わるかもしれない。
もしあなたが「ヒトは何故『美しい』ということがわかるのか」という疑問について一度でも考たことがあり、そして心の片隅にそれが少しでも残っているなら、あなたは間違いなくこの作品をプレイして衝撃を受けるだろう、と。
※もうちょい抽象的な話をすると、「美の価値」とか「何をもってヒトとするか」という話も関係しているのだが、上の言葉が多分一番的を射てると思う。
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