カンボジアの国立博物館・虐殺博物館・地雷博物館:語られる歴史像の差異

2024-05-26 18:08:25 | カンボジア旅行
 
 
国立博物館を訪れるのはおもしろい。なぜならその国の自己像、すなわち「自分をどう見せたいか?」という歴史がそこに表れるからである。
 
 
シェムリアップの国立博物館は極めて典型的であり、外観からも大金をかけたことが容易にわかる建物の中に、アンコール朝を含めた古代・中世の遺物が展示され、さらに2時間にも渡る充実の音声案内で説明するものとなっている。
 
 
 
 
 
 
 
もちろんこれは、シェムリアップを訪れる人々の大半がアンコール・ワットを求めており、それに付随するものを提示するという意図に基づくという意味では経済合理性もあるだろう。しかし、音声ガイドの所々に現在のタイの大部分やヴェトナムの約半分を統治していた「大カンボジア時代」を誇るような言葉が聞こえることからすれば、やはりそれを栄光の時代としてクローズアップしたいのだろうと思った(もっとも、タイとは2000年代でも国境紛争が起こっていたりしたので、あからさまに周辺国を刺激するような言い回しはさすがにしていなかったが)。
 
 
なお、そんな力の入った音声案内の中で、「武雄」という項目があり、最初「王の業績=武勇の誤字か?」と混乱したが、実はTakeo寺院のこと(要は誤変換)とわかり吹き出してしまった次第w
 
 
 
 
 
 
「スーリヤとチャンドラー」とかあれこれ説明している中にこんなもんぶっ込んでくるのは反則すぎるよw
 
 
 
ちなみに国立博物館はプノンペンにもあるが、こちらは植民地時代からの研究施設に由来する=シェムリアップのものより来歴が古いからか、国威高揚的なテイストは強くない印象(19世紀は列強のアジア進出に伴い東洋研究が進んだ時期でもあった。例えば中央アジアなら英のペリオや仏のシャバンヌといった人物の名前が挙がるだろう)。内容的には古代・中世の彫像あたりが多くはあるのだが、中には近代のカノン砲や織物(伝統文化)の展示なんかもあって、もうちょっと幅が広い感じになっている。
 
 
 
 
 
 
まあこのガルーダさんを見たら、スゲー!っていう感情よりも何このドヤ顔スタイルwwwて反応が先に来るってのもありますが(・∀・)どう見てもビジュアルがギャグ漫画の三枚目なんだよなあ。漫画☆太郎シリーズとかボーボボとかにいそうって思うのはワイだけかね??
 
 
こういう風に比較対象をしていると、日本における戦前の歴史教育(平泉澄に関する記事でも言及したような皇国史観)と戦後の歴史教育の差異、あるいは平成に生じた「つくる会」の活動のように、カンボジアの歴史教育の変遷も気になるところではあるね(それこそ前回の古典教育に関する記事で触れたように、近代以降の教育というものは基本的に「国家的な洗脳」なので)。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ちなみにこちらは王宮の展示の一部。まあ王宮において国王の業績が顕彰されていることには何の不思議もないと思われるかもしれない。ただ一方で、以前紹介した虐殺博物館(注:ここは国立である)の音声ガイドでは明確にシハヌーク前国王による農民の苛烈な弾圧に触れており、それは宗主国から独立した植民地にしばしば見られる開発独裁的なものであるとはいえ、それが共産主義に傾倒する人間を増やし、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)拡大の一因になった点は否定できない以上、ここでの出来事には国王も責任を負っていると暗に言っているのと同じであり、国立の博物館がこうも真正面から現王室を批判しているということに驚いた(もっともこの辺りの事情についてはシハヌークの親中路線やアメリカの介入とロン・ノル政権のクーデター、ヴェトナム戦争後のヴェトナムの介入など極めて多くのファクターが関連しているため、そう簡単に要因説明できるものではないが)。
 
 
これに関して私がもう一つ意外というか興味を持ったのは、シェムリアップ郊外にある地雷博物館である。
 
 
 
 
 
 
ここは国立の施設ではなく、元々ア・キラーという一個人が始め、そこに様々な人や組織が援助をしている場所でもあるため、その音声案内で虐殺博物館と同様にシハヌークの農民弾圧が批判的に言及されていることにさして驚きはない。
 
 
しかし、そこで購入した本について、
 
 
 
 



 
そこでは、ア・キラーが始め敵対し、後に行動を共にしたヴェトナム軍の蛮行もまた赤裸々に綴られており、これが他にはない要素だったので驚いたのである(念のため言っておくが、クメール・ルージュに関するものもしっかり書かれている)。
 
 
もちろんそこには、様々な事情が想定できる。例えば現政権はヴェトナムの支援で成立したヘン・サムリン政権を受け継いだものであり、そこに外交的配慮があるのではないか?ということであったり、あるいは単に凄惨な現場に居合わせたア・キラーという人間の生の証言だからこそ可能なものなのか?といった点であったり。
 
 
外から見ていると、クメール・ルージュがあまりに悪辣であるために、どうしてもヴェトナム側には解放者的イメージを持ちたくなってしまうが、「戦争には善と悪があるのではなく、別々の正義があるだけだ」とも言われるように、改めてヴェトナムに対しても批判的な眼差しは持っておく必要があるなと感じた次第である。
 
 
というわけで、カンボジアでは様々な場所で色々な角度により歴史が語られる様を体感できたので、これを契機にカンボジアのみならず色々な国の歴史教育とその比較という視点を今後の興味関心として持っておきたいと考えた次第である。

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