先日、「古典教育不要論がなぜ強く唱えられるようになるのか?」という記事を書き、グローバル社会化と成熟社会化による価値観の多様化・複雑化があり、国民意識の解体と、それに基づく最大公約数としての経済合理性の希求が背景にあると述べた。また、動画で言われる「教育とは国家的な洗脳である」ことのアナロジーとして、カンボジアの国立博物館で提示される自己像(かく見られたいという自国の歴史像)について別の記事で触れた。
ここでは、別の視点として、動画で触れられる「私益と公益の混同」がどのように発現するかについて、以前書いた「ガラスの小びん」に関する批判的な記事と、それに対する反応の齟齬を元に説明してみたい。ちなみにこれは小学校の国語の教科書で採用されている文章についての話なので、小学校と中高生で学齢も違うし、古典教育と一体何の関係があるのかと思われるかもしれないが、むしろ古典教育の事例ではないからこそ、どのように共通したズレが興味深いと思うのである。
さて、「ガラスの小びん」とは概ねこういう話だ(元記事から引用)。
主人公の父親は、よく甲子園の砂が入った「ガラスの小びん」を持ち出してかつての自分を自慢していた。ある時、主人公はそんな父親の行為に反発し、中身を捨ててしまう。ついヤってしまった…と思いながらもその事を父に言ったら、怒るどころか、むしろすっきりしたような顔で主人公に「お前が代わりになるものをつめてみろ」と言うのであった…
この小説について、自分の授業では「なぜ父親はこのような反応をしたのか考えてきなさい」という宿題が出た。その発表の授業ではクラスで当てられた複数名が答えはするが結局父親の反応の理由については「よくわからない」を連発する中、たまたま私は父親と話して得た視点、つまり「父親自身もそれが一種の『執着』であることを理解していたが、自分ではそれを捨て去ることができなかったがゆえに、主人公の行為によってむしろすっきりしたような反応をしたのだ」という趣旨のことを答えた。しかし、私の答えを含め、教師からまともなフィードバックはなかったように思える。
私が述べたのは、この文章を小学生に教える意味とは何か?ということ。そしてそれを生徒に考えさせるための十全な仕掛けがなされていないのではないか?ということだった。というのも、この文章を(わざわざ学校という場で強制的に)読ませる目的というのは「他者性」とそれに基づいた「他者理解」であると予測され、であるならば、父親の行動を深く考えさせるためのフックが何ら準備されていない状況で「はい、考えてきなさい」と言われたところで、こっちからすれば「知らんがな」で終わりだからである。
言い換えれば、クラスの大半にこの文章を教える意義が理解されず、よってその効果も薄いままであるという点で公教育=公益性の担保という観点で失敗していると指摘したのである(これは採用する文章そのものの妥当性という問題とともに、教師の授業力という別の観点もある)。
ところがこの記事に対し、最初に返ってきた反応は、「あなたにとっては意味があったのでは?」というものだった。私はこれに完全に脱力して正直返信する気すらなくなったのだが、その理由は単純で、この返信してきた方はまさに「私益」の話をしているからである。つまり、古典教育の件と同じで、「意味がある人にとっては意味がある」というアレだ(それは逆に言えば、意味がない人にとっては意味がないし、よって強制される謂れもない、という反論が成立するとはなぜ思わないのだろうか・・・)。
これだと誤解を生む恐れがあるので、もう少しわかりやすく極端な例を出して補助線を引いてみよう。例えばとある小学校のクラスに、数学の天才がいたとする。では、その生徒のレベルに合わせて、数学の世界では大変意義深い大学数学の内容を延々と話し、他の生徒にとっては呪文にしか聞こえない状況、というのはどう評価するだろうか?あるいはそこまで極端な例でなくても、例えば学校で習う外国語について、ラテン語ではなく英語を習うのはなぜだろうか?あるいはタイプライターの使い方ではなく、プログラミングを習うのはなぜだろうか?
以上の話から言いたいのは、公教育というものには、「最大公約数的なニーズ」・「効用の最大化」といった要素が必ずつきまとう、ということである(その対極にあるのが、動画でも言及される「習い事」だ)。
この要素と真摯に向き合った時、繰り返しになるが、小学生に「ガラスの小びん」を読ませるという試みは、その狙いが妥当か非常に疑問んであるし、少なくともそれを成功させるために周到な準備を書いた授業は明らかに失敗だったと言うことができよう。その意味で、私は「公教育・公益性という観点で小学生にガラスの小びんを教えることの妥当性」を議論しているのだが、それにもかかわらず、「私個人にとってのガラスの小びん」という観点での話を反論として用意してしまうズレが、まさに動画で言われている「私益と公益の混同」の最たるものだと感じ、頷いた次第である。
もちろん、このことも念のため付け加えておく必要があるだろう。即ち、公教育が「効用の最大化」を目指すからと言って、全く同じように生徒が授業内容を受け取られることなど想定していないし、逆にそうだとしたら全体主義も真っ青な洗脳教育である、と。しかし、学習の目的と思しき事項について、生徒から「わからない」が連発する状況に対して、何の事前準備もなければ想像力をかき立てるようなヒントも授業内で提示しないで、「わかりませんでした。いかがでしたか?」というクソ記事と同類の授業に、一体何の価値があるのか?と申し上げておきたい。
で、話を古典教育に戻すわけだが、さて今の学校で行われる古典の授業は、このようにお題目化してはいないだろうか?つまり、古典を鑑賞するという手段を通じて(本当にそんな高邁な思想が共有されているのか私には甚だ疑問だが)日本人の精神性を理解するという目的が達成されるべく授業が行われるべきはずなのに、古典の文章をただ解釈する、つまり古典文法を叩き込み、文章を和訳して、点数を取ることを目的とした授業になっているんじゃあないですかね?と。
そうだとすれば、いやはっきり言えば、その可能性が極めて高いと思うからこそ、私は「道具主義的に教わるものは、役に立つと実感されない限り、否定されるのが当然である」という記事を書いたのだ。
私の予測が概ね当たっているとして、そのようなお題目と化した授業をそこここで垂れ流している限りは、そもそもの古典教育が目的としているものはほとんど達成されえないし、そしてそんなものを公に強制されている以上、古典教育不要論がかまびすしく主張されるのは当然のことと言えるのである。
とはいえ、抽象的に批判しているだけというのは余りにも不当と思われるので、次回の記事では『伊勢物語』と『土佐日記』を取り上げながら、そこから「当時の人々の精神性を理解する」という目的で読解していくなら、どのような要素が必要かを具体的に述べてみたいと思う。そこでは、文章の和訳が仮にできたとしても、例えば「東下り」で出てくる当時の「東(あずま)」に対する理解が正しくなされていなければ、そこでの和歌への理解などにも重大な影響を及ぼす、といった話をしていくことになるだろう。
以上。
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