フラグメント107:論理的な狂人、「空気」、排除

2011-03-08 18:00:00 | フラグメント

話題は前回と似ているが、中途半端にジャーゴンが混じってるとこがダサい・・・あとは同調圧力やファシズム、「共感」といった話題を取り上げており、今と繋がる部分が多いってくらいかな。

 

二次創作と誤配アーキテクチャへの言及
うみねこや至極のビブリオ→うみねこは皮肉もあるが、「正しい」受容の仕方。ひぐらしを通じてより明示的・確信犯的にキャラを駒として扱っているから(それでもなおキャラを現前する存在と認識してしまうメンタリティへの攻撃が第四羽だったり→かわいそかわいそ→君望キャラへの埋没)。二次創作が原作と思うような誤配、オートポイエーシス的側面には配慮すべき。しかしそれは全てが作家(性)に還元されるような環境に対するカウンターとしては有効であっても、実態とは異なる。ハムレットとかも二次創作なわけで。オリジナリティというものの価値(エピステーメー)の問題にすぎない。

<論理的な狂人>  →「論理至上主義の陥穽
裁判…理性の限界。論理的なのに間違うのではなく論理的であるがゆえに間違う。感情こそ正しいは間違い。親を殺すはずは…ハァ?理性への戒め、謙虚さ。「死の家の記録」。判員制度。カラマーゾフの例…主人公の発言や行動=作者の主張ではない。「ドストエフスキーの詩学」演出の意図を考えろ。問題は遥かにシンプル。単に不快感を垂れ流しているだけ。飛躍しすぎていた。カラマーゾフの兄弟でアリョーシャやイワンの主張を作者に還元する行為。ポリフェノールによる挫折。人に人が裁けるのか?よりよくあろうとする(論理的たろうとする)ことで、かえって「真実」から遠ざかる。→ひぐらし祟殺し


共感
「みんな仲良し」幻想。空気読めとか何も考えずに言ってるやつらは、彼らの様を笑うのならまだしも嗤う資格はねーよ。「自然な共感」といった物言いが非常に危険なのは、本質的には繋がっていないにもかかわらずコミュニケーションが成立するという状況を反転させ、成立しないことをむしろ異常だとみなしてしまう。排除の構造、他者とのコミュニケーション能力が成長しない。「空気」の日本で共感を打ち出すことは得策だとは思えないね。昔なら多少の有効性あるかも。実態としては価値観の多様化した今なら「まわりは地雷だらけ」で、濱野さんのツイッターネタになるわけですよ。



<かつて>
昔に帰れ。昔っていつだよ。戻るためのインフラは?多様な価値観を認める。共同体的世界。ファシズム、フロム。会社に滅私奉公したい人もいる。住という大きな問題はあるが、14型でいいユニクロでいいという生活。将来は輝かしいの?思わせないとめんどくさいと言うことと、思うかどうかは別物。

<小林、ギデンズ社会学東中野>
彼らが口にしているのは、実のところ処方箋ではなく自らの愚鈍さである。トルコ旅行、韓国旅行…通じていないのに通じてしまう。ただそれは本当に通じているのか?そう問うた瞬間にピリピリして変人。コミュニケーションは成立してるけど、それ内容伝達が成功してことを必ずしも意味しない。同じである保障はどこにもないのに通じているという事実性。そんなもんだと割り切ってるのか?以心伝心、共感の危険性。理解できなくてもしゃーない。君望コメントのナイーブさ。

<本当に「調和」を目指すなら>
多様な価値観と価値観の多様化を否定するには、個人の思考や行動を云々してもしょうがなく、かつての村落共同体に戻るしかない。それはあまりに非現実的な選択肢だし、また文明の利器に浴している者はそれを支持しないだろう。とするなら、「地雷」が消えることはありえない。であれば、取るべき道は二つ。地雷を踏み死に体になるのを覚悟の上で踏み出す。そんなコミュニケーションコストは払いたくないと回路を切断したり、その回路とは全く違う方向性で…という人間が増殖するのは不可避。もう一つは「地雷」が「地雷」でないと理解させること。差異や衝突は自然な過程。

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