フラグメント106:ゴスロリ女、リアリティ、「共感」

2011-03-07 18:00:00 | フラグメント

2010年の2月末から3月初頭にかけての、つまりちょうど一年前のフラグメント。しかし読み返してみると、今とそこまで大きく話題が変わんね~。ま、だからこそ嘲笑の淵源シリーズやら「沙耶の唄」の記事に早くケリをつけたいと思ってるんですがね。ちなみに最初の<もやし>にある「長谷川の出身校当て」は、それがおそらくお茶の水女子、あっても東洋英和だろうという推測だが、結局現実の学校に同定したとしても、かつて作者が強調していたように「フィクション」なので意味ないね、という話(正確には幼稚園から同じ学校という「箱入り娘」ぶり、あるいは籠の中の鳥であることがアピールできればそれで目的は達成されている、ということ)。この同定やら厳密性(この場合ちょっと違うか)に関する話は「ひぐらしのなく頃に」の評価に関わってくるが、それは「とあるプレイヤーの証言」の続編で触れられればと思う。それ以外はまあだいたい読んだ通りでげす。

 

<もやし>
もっとも、そういう理論やテーマ的な側面と並行して、(色々な意味でw)マリーVSゴスロリ女の図が展開されるのかもしれないが。嵐の前の静けさ?オクフェスのゴスロリ女の扱いを見ていると、もしかして作者も持て余しているんでねーか?まあ惚れた男のひいき目かもしれませんがw草稿発掘。長谷川の出身校当て→「箱入り娘」だと演出できれば十分→仮にそんな学校が存在しない→ネタにする→なぜネタになる?→現実を模倣しなければならないという前提が存在し、それとズレているから→なぜ現実の模倣でなくてはならないのか?

 

<無題>
私はそういう人たちに全幅の同情を感じているわけではない。しかし、明らかな構造的欠陥は指摘すべきだと思うのだ。同じ(のはず)だから~だ、ではなく違うのが当然なのだけれどもしかし…という逆説に基づかなければすり減るだけ。ところで、「みんな仲良く」という人はファシストなのだろうか?おそらくそれは違う。経験によればむしろ「いい人」と表現して差し支えない。しかし実は、悪意をもって~を流布する者より善意のデストロイヤーの方がよほどタチが悪いというのは歴史にはあまりにありふれた話。「共感」の効果。

 

<不快感の落とし所>
もし本当に柔軟(戦略的)な思考ができているというのでしたら、作品の結末が不快だとただ喚き立てるのではく、二次創作で望む結末にすれば宜しいんではないでしょうか。

 

<34巻三匹の女豹>
ネタにできるのはスキルであり、「~しかできな」のは悲劇。洗濯→ゴミだし(ダンボ、ペット)→小片付け(くつばこ、袋系)→布団とクリニ→風呂・トイレ掃除の伏線。はわいてマット、小物処理、トイレ・風呂掃除、尊敬の構造、距離感。惚れた腫れたの腫れたってのは何だ?クスコ~、妊娠で~す(ウイイレ中継より)。脳は白子でできている、夢の中でイッテミタイと、こはいかに、老年萎えやすく、痴漢ネタ→悪戯無修正が極北。途中のネーチャンがあれなら神の領域に。特急なのに綱島、元町中華街、お~、おあお~。う、め、みやたつお~。エスカルゴ運送、感覚など変化する。精子吐き気。今ではむしろ興奮する。ショタとジェンフリ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« No Horse No Rife | トップ | フラグメント107:論理的... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

フラグメント」カテゴリの最新記事