灰羽連盟(以下「灰羽」)という作品が、実存を根幹のテーマとし宗教的要素も数多く含まれているにもかかわらず、それが「青臭い」といった理由で敬遠されなかった理由について論じてきた。それは例えば、天使のイメージに反するであろうタバコやスクーターといったアイテムの配置、「来世」と解釈できる世界を「いるべきではない場所」とする作中人物の発言など、枚挙にいとまがない(前者は「灰羽連盟覚書2」、後者は「灰羽連盟草稿2:非自明な世界」を参照)。そこで今回は、その要因の一つと考えられる灰羽のキャラ配置にスポットを当ててみようと思う。
前掲の「灰羽連盟覚書2」では次のように述べた。
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序盤で繰り返し描かれる生活の風景や、敬虔どころかとっぽくてたくましい(笑)灰羽たちの有様は、やはり天使イメージ(?)からの逸脱を促進するとともに、彼女たちと視聴者との距離を縮めるだろう。これらによって、「彼女らは元々そういう存在だからそうする(=実存に悩む)のだ」という具合に灰羽たちの心情や行動を風景化・無害化する作用が起こりにくく、かといって押しつけがましくもならないのである。
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この点について、もう少し掘り下げてみよう。最初に結論を言えば、灰羽に「敬虔」とでも表現すべき(≒天使のイメージ像に合致しそうな)キャラが登場しないことが、視聴者に否定的な印象や距離感を感じさせない上で決定的に重要であった。たとえばメインキャラは、タバコを吸うレキ、よく居眠りしてるネム、神聖な道具をパンの鋳型にするお茶目なヒカリ、型破りな感じのするカナ、元気がよくて屈託のないクウ・・・といった具合にむしろそれに反するような人物ばかりが描かれている。他の灰羽についても、ダイやハナといった年少組はやはり「敬虔」という言葉から遠いし、ラフ&カジュアルな廃工場の面々(特に男子勢w)にいたっては言うまでもないだろう。また人間についても、時計屋の親方、司書のスミカ、ラッカを「灰羽ちゃん」と呼んだ女の子など、「敬虔」という言葉の似合いそうな人物はいない。
以上のように、この作品には灰羽という存在やその仕事、あるいは「巣立ち」といったものを自明視したりいたずらに神聖視したりする人物は一人として出てこない。そしてそのことは、灰羽の世界が押しつけがましくならないとともに、本編で描かれる寄る辺なさや消失・別離の恐れといった実存の揺らぎが、そういった人物たちでさえも向かい合わざるをえない、つまり一般性を持つものとして自然に視聴者に共有されるものとなっているのである(内省的な人物が実存に悩むのは、よほどの文脈規定がなければ単なる嗜好の問題、あるいは対岸の火事へと堕す)。そしてこのような描き方を一言で表せば、「論理によらずに納得を生み出す方法が秀逸だ」ということになるのである。以上。
なーんてね。これで終わりじゃないよと。正確には、視聴者の反応を決定づけた要素の考察としてはこれで終わりだが、おそらくキャラ配置の評価を見た時、「話師は?クラモリは?」と思った人もいると思われるので簡単に補足したい。なぜこの二人をあえて外して論じたのか?初見の段階で、彼らの振舞が二項対立的に現在のオールドホームの灰羽たちの性質を浮き上がらせるなどと意識した人はそれほど多くなかっただろうし、ましてやクウの「巣立ち」やクラモリの救い、そしてレキの救われ方の比較対象などといった作業を初見で意識的にやっていた人はおそらく少数派だったと思うからだ。ゆえに、「なぜ灰羽が実存の描写などで『青臭い』といった理由で敬遠されなかったのか」という問いに対して話師やクラモリの描き方をクローズアップするのは、誤解を恐れずに言えば後付け的・脚本集的な考察、あるいはローカルな視点であって、少しもヴィヴィッドではない二次的な問題だと私は考える、とか何とか。まあそういう前提の上で一応次は話師やクラモリの問題を扱うことにしよう。
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