最近は、「これから日本のみならず世界経済がヤベーことになるから覚悟が必要だし、自助努力(自己責任)信仰の強い日本ではなおのことやで」と繰り返し書いている(もちろんシステムに適応しろってだけでなく、そもそもイノベーションとかのためにもBIとかで社会的不安を減衰させるべきだ、なんてことも提案してるが→自己責任論の跳梁跋扈→不安とイノベーション停滞&いわゆる「流動性の罠」促進となるのは目に見えてるんで)。
で、そういう話は当然、今後の就活にも大きく関係するわけである。ソフトバンクや日産の赤字については特によく報じられているが、地銀の再編はいよいよ待ったなしとなり(てかもう死にかけのナメック星人だらけなんで、はよ合体しなさいって話だが)、インバウンド業界・飲食業界・石油業界(エネルギー産業)と、波紋はどんどん広がっている。
そんな状態にもかかわらず、就職という観点で「これをやってれば対策になる!」」となかなか言いづらいのが日本の企業だ。というのも、前に小熊英二の動画を紹介したように、(これから変化する可能性は一応あるが)日本では〇〇の資格があればOKとか、△△の学歴があれば大丈夫、などの基準が極めて不透明だからである。
「日本は学歴社会だ」と言われ欧米と比較対照されることも多いが、それはイメージの話でしかなくなってきている。というのも、discriminationであると糾弾されることを避けるために、欧米では基準の透明性を担保する目的で、修士号やら博士号を取っていないと役員になれないといった、日本以上の超学歴社会になってきているのである(ちなみに受験競争という観点では、韓国の方が日本より遥かに厳しく、ソウル大学・高麗大学・延世大学がSKYと呼ばれ、政治家や高級公務員、役員などの登竜門とされているのは有名な話だ。また、資格の取得で見ても例えばTOEICの要求される点数は日本で出張ができる云々とされる700点レベルなど超えていて、800点以上を要求されることも別に珍しくはない)。
ではなぜ、日本は(日本国内の?)イメージに反して欧米ほど学歴に厳しくなっていないかと言うと、おそらくその解の一つが「どこの企業にも通用する統一的基準」よりも、「この会社でやっていける適応力があるか」をいまだに優先しているからであろう。客観的にスキルとして評価できるものを身に着け、職場でしばらく働いたら普通に転職もするし、突如クビになるのが欧米(特にアメリカ)だ。しかしそれとは異なり、採用したらある程度長い期間その会社で働くことを前提とするがゆえに、その会社風土を理解できるか、それに馴染めるか、そこでのメンバーと調和できるかという物差し=「コミュニケーション能力」なる曖昧な基準を圧倒的1位で重要視しているわけだ(統一的基準での評価[例:資格]を重視したら、数年して他の会社に移られるリスクが生じ、育成コストが台無しになってしまう。それより、この会社のシステムに埋め込んでしまおうという考え方だ。だからこそ、下手に手垢がついているよりもフレッシュな学部生=新卒がよく、院生はむしろ高い給与を払わなければならないという事情もあって、敬遠されるわけだ。まあもっとも、そんな風に曖昧だから学生は何を鍛えればいいのか不透明だし、ミスマッチも数多く起きるわけだけども)。
こう言うと、私が日本の宗教関連の話で述べている「企業共同体」絡みで日本の伝統=お家芸のように思うかもしれないが、日本も大正時代まではクビ切り御免の欧米的スタイルであり、むしろ昭和、特に総動員体制になってから構築されたシステムが戦後も残存したという要素が大きい(=歴史的所産に過ぎない)。
言い換えれば、そういった歴史的文脈の中で各人が利益を追求していった結果として歯車が噛み合って出来上がったのが現行のシステムなので、年功序列や終身雇用も含めて時代に適用できず問題となっても、なかなか変えるのが難しくなってしまっているというのが現状と言える(この点については、比較制度分析やゲーム理論という視点で、日本人の無宗教やその分析などに絡めつつ、別の機会に書く予定である。ちなみに宗教とゲーム理論!?とか思うかもしれないが、それは宗教というものを「純粋な思索的行為」とのみ捉える錯覚であって、例えば日本の仏教受容は単に宗教・思想のみならず技術体系の受容でもあったし、キリスト教改宗についても貿易の利潤というものと結びついていた。このような現象はひとり日本だけの話ではなく、例えば中国のイエズス会の布教の際には、大砲や地図といった技術がセットでもたらされた[これはイエズス会は意図的にやっている]。また、古代オリエントの神は政治と不可分であったし、その他でもキリスト教国教化、クローヴィスのアタナシウス派改宗、カール大帝の戴冠、ムスリム商人の進出とイスラームへの改宗など、枚挙に暇がない。つまりは、宗教の広がりにおいて、思想とそれへの共鳴という点にのみ注目するのは、たとえて言うなら言語を歴史的変化を無視してあたかも不変の「正しい」ものが存在していると妄想するのと同じく、むしろ現実から遊離したおとぎ話のようなものだと言えるだろう)。
まあこんな不穏な情勢でかつては新卒切り捨てをやってきた日本企業が、「コミュニケーション能力」という曖昧な基準で人を選定していくわけだから、学生たちは正直まあ不安になって当然だとは思うが、逆に敵のやり口がわかっていれば、多少は戦いようがあるのも事実だ(これは大学生に限らず、小中高生にも言える。正直、自分の親を含めた周囲の大人はone of themにすぎないのであって、こういった性質を幅広く知悉しているなどとは思わない方がいい)。その点、F氏の動画にもヒントは沢山転がっているので、この機会を利用して幅広く情報を集めるのがよいのではないだろうか、と書きつつこの稿を終えたい。
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