YU-NOエンディング批評~フラグメント2~

2012-04-15 18:16:56 | YU-NO

では「YU-NOエンディング批評」の覚書第二弾。やはり原文が長いので詳細な説明は省く。ただ、サターン版をプレイしたことがない人はいるかもしれないから、一応参考までにリンクを貼っておく(原文では、「たくやに声があるので他者性が云々」という話もしているので)。なお、私が最初に(高校生の時に)プレイしたのはサターン版で、YU-NOに対する諸々の評価はそちらに対するものであることを一応断っておく(PC版は大学院生時代に原典を確認するような感覚でプレイした程度で、特別新しい発見もなかった)。それにしても、音声の関係などでサターン版を18禁版としてリメイクするような形は難しいのはわかるが、たとえばサターン版の内容をそのままPCでプレイできるような形にするだけでも、少なからず需要があると思うのだが・・・

 

[原文]
さて前回は最初期のフラグメントを取り上げたが、そこではエンディングへの違和感が主に表明されていた。要約文ではそこから具体例へと移るが、考え始めた頃はしばらくの間エンディングは本当に問題があるのか?あるとすればどのような代案がありえるか?という方向でずっと試行錯誤をしていたことがわかる(「それは個人的嗜好によるものか?」はその結果生まれたもの)。なお、前回と同じく原文のカッコは( )、新たに付け加えたものは[ ]で表記する。


<家族への情念>
[エンディングを変えた方がいいとは言っても、]家族への情念から、ユーノを追う以外の選択肢はありえない。てゆうかそもそも[あの空間から]戻れるのか?戻れないなら主張は意味がない。理系的要素、あるいは設定を突き詰めねば…ほんとに?[設定というのは製作者の意図によるところが大きい。ゆえに]重要なのは、なぜ戻れないようにする必要があるのかを問うことではないか[=戻れないことに必然性はあるのか?それは絶対必要なのか?=変更不可能なのか?という問題意識]?

[たくやは]日常性を選ぶ…[現世編の]後日談的エンディングで補完されている。しかも、それは哲学的かつ唯一無二の異世界エンドと見事なコントラストをなすように描かれている。しかし繰り返すが、静謐なエンドとたくやの人格は決定的な齟齬をきたしている。とすれば、言いうるのは二つ。あえて日常を選ぶ[エンディングにする]か、[たくやの]描き方を変えるかだ。


<日常性の希求など>
相手の年上率高いのは母親を意識?…セーレス不明、澪は同年齢、他は年上(※)。あるいは家族への情念[という行動原理]を理由に、(その時点で唯一の家族となっている)ユーノと再開できたことで満ち足り、心の平安を得たのだから静謐なエンドでも問題ないという反論がありうる。しかし、たくやは家族がいればそれでいいという人物であったか?本編を見てみよう…ユーノにも同年齢の遊び相手が必要、といったふうに、家族だけいればいいという考え方ではない(※2)。さらに言えば、(広大を)ぶん殴って連れて帰る、だとか[訪れたばかりの]デラグラントを脱出しようとしたことなど、彼には日常性の希求というベクトルが強く認められる。

つまり、破天荒なイメージが付きまとう彼だが、家族については「普通の」生活を望む傾向があるように一貫して描かれているのだ(「所帯じみている」とも言える)。そのような本編から見えるキャラクター像から判断する限り、家族と再会した=静謐なエンディングに必然性あり、とは言えない(こんな状況になってしまったらしょうがない、とあっさり諦めるタイプでもないし…収容所での態度、あるいはアマンダの発言など)。


澪の設定は、「マザコン」という風にたくやの行動原理がネタでしか受け取られない、という状況を回避するために挿入されたものだろうか?あるいは単にバリエーションのためか?美月と対照的に描かれていることを思えば、少なくとも後者の狙いはありそうだが…ただ正直な意見を言わせてもらえば、(そのような狙いがあるにせよ)澪が攻略対象であることはいささか取って付けたような印象を当時受けたことを記憶している。あるいは、たくやとのやり取りが「わざとらしい」ことがそのような印象に繋がったのかもしれないが。

※2
ちなみにデラ=グラントでセーレスと家族を築き上げた時の話。たくやは家族がいるからいいやという姿勢ではなく、ユーノの遊び相手、言い換えれば他者との繋がりが必要だと考えていることがわかる。ここから具体例の吟味が本格的に始まった。


<たくやの人物像を基準にする必然性は?>
[自分の見解に対して]他に思いつく反論としては、プレイヤー基準でのカタルシスを狙ったというものがある。しかし、たくやは非常に独特な過去を背負っているだけでなく、サターン版では声さえもついている。つまり他者性が強い。

[とここまで考えたところで、そうすると次のように反論が出ることを想定…]たくやとプレイヤーが別人なら、ますますいーんじゃん?だってたくやの人格がそれだけ関係なくなるんだから。エンディングの内容そのものは正しいので、その見解は否定できない(プレイヤーを基準にすると、今まで論じたことは無意味だ)。あくまでたくやのキャラを重視するなら、根源にいたってなおそれを否定し、日常に回帰するエンドであるべきだろう。たとえそれが澪たちのエンドとの差別化をぼやけさせるものであっても(マルチを志向したくなるが、エンドが一つしかないのも差別化)。あるいは差別化を重視してそのままのエンドで行くなら、異世界で伏線を作っておくべき。


この記事にあるように、「プレイヤーを基準にしたエンディングだからたくやの人物像は考えなくてよい」という反論を想定したことによって、一度はかなりのレベルまで議論を限定化、後退せざるをえなくなった(ここでは、たくやのキャラを基準に批評するのは単なる一視点になっている)。YU-NOの記事を書くのに時間がかかったのは、この問題をしばらく考えていたからである。「たくやの行動原理とエンディングの齟齬」が生まれたのはこのような問題の吟味からであり、またその問題意識ゆえに、たくやの行動原理の具体例→齟齬の指摘→代案の提示という流れの前に、その流れ自体を脱臼させかねないこのような反論をが潰しておいたわけである(たくやの行動原理の一貫性=人物像の描かれ方がどれほど重要なものかは前掲の記事で述べたとおりである)。


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