今が結婚式の最中か、すでに沖縄行きの飛行機の中にいるのかはわかりませんが、皆さまに置かれましてはGWを満喫中のことかと存じます。
さて今回のフラグメントは日本人の「無宗教」の話です。まあ「日本人の『無宗教』に関する覚書」の草稿と言えばそれまでですが、「無宗教」の事を考える際にセム的一神教や(民俗宗教と対置される)創唱宗教を拠り所にしてただ断罪するような行為をしてもあんまし意味はありませんよね、というお話です。もちろん、「宗教学における宗教の定義は…」といった前提は重要なのですが、結局は「じゃあその枠組みとズレる日本社会の宗教って何なの?」って話になりますからね。また、そこで現世利益的といった指摘は出るでしょうが、それが宗教的帰属意識(=自分は「~教徒」だ、「…宗」だ)に与えている影響まで考えなければ、「無宗教」の問題においては大して意味がないのではないかと思うのです。
まあこの手の問題については、専門的に研究しているわけでもない私が容易に結論めいたものを出せるわけはないので、気長に考えていければいいなと思っております。
<日本人の無宗教>
アメリカ的物質至上主義も唯物論も、視点としてはおもしろいが、結論としてはありえない。というのも、そのような観点では、葬式仏教や初詣といった「イベント」はまだしも、占いブームや水子供養、筆供養、心霊などの怪奇現象特集、ホコラの移動に関する問題を何ら説明できていないからだ(もしそれらが一般的なら、今述べた事は蒙昧さとして退けられるはずだ)。要するに、日本人の「無宗教」とは、「特定の宗派に属していない」という意味だ(コミットメントの意識)。つまりその特異性を考えるのなら、言葉のカテゴリーが特異か否かの検討(=それを日本人は宗教と呼ばない)、そし
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て、特定宗派への帰属意識がない理由の検討こそ必要。「無宗教」と認識することのデメリットは?かかる状態の中で、実はあなたは~教徒なのだと気付かせるために様々な証拠を揃えても究極的には無意味だ。なぜなら、研究者・考察者がこれあらば宗教に帰属すると思う要素と、対象がそう思う要素が異なっているからだ(そもそも、宗教への帰属意識がかくのごとき積み重ねによって成立するものか大いに疑問。逆の視点で考えてみるといいが、~教徒を自認する人はいちいち項目をつけて○×チェックをし、何個○がついたから~教徒だという判断の仕方をしてるのか?)。
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だからもし、あなたは~教徒なのだと無理矢理にでも「啓蒙」することが目的なら、実態(行為の)研究だけやってぐうの音も言わさぬよう具体例を積み重ねて突き付けるのは理解できる(ただ、行為の有効性は先に述べたように甚だ疑問)。しかし、「なぜ無宗教なのか」を問う事が目的なら、実態を見て宗教的要素が多々見られるというだけでは何の意味もなく、そこから「しかしそれにもかかわらず、無宗教だと感じるのはなぜか」と問題設定をして初めて、ようやくスタートラインに立てるのだ。そのような観点がなければ「無宗教」に関する考察は原理主義の片棒担ぎ。
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私は自分が「無宗教」であると認識している(そもそも、トルコのコンヤという町でトルコ人にそう話し、理由を問われたのが考察のきっかけ)。影響は皆無ではないが、信仰はしてない。私の意識と他の日本人の意識が似通っているのかはわからない。ただ、やり取りから理解するかぎりそう大きくはズレていないだろうと推測する。友人のお坊さんの話…俗物。おそらくこの日本でわざわざそんな事やってんだからよほど…というイメージに対する訂正なんだろう。よくわかる。ただ同時に、世界の宗教を見ればそんなのフツーだとも思う。ウラマーじゃないが、トルコの信仰の在り方のグラデ。
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