前回は、怒涛の惨劇で視聴者の度肝を抜いたであろう第15話について感想を述べてみた。そこでは、背景もきちんと描写せずに旧ひぐらしでは考えられなかったような人物が次々と凶行に及んでいく様が描かれており、そこから「個々の話の犯人とその動機付けを考察するのは究極的に無意味なことを暗示しているのではないか?」と述べたが、すると重要なのは、旧ひぐらしでもあったように共通する要素、すなわち「ルールXYZ」を抽出することに他ならないだろう。
【「ひぐらし 業」の世界ルール=今までの話から見える共通点】
前述の理由からルールの抽出を行ってみると、
(A)鷹野の「強靭な意思」は存在しない→だから富竹の「時報」も起こらない(そして大災害も起こっていない)
(B)梨花が狙われることが共通→しかも症候群のL5を発症して彼女が惨劇の元凶(ないし主要因の一つ)とみなす点が共通
(C)旧ひぐらしでの人物理解が通用しない→「解釈違い」(「リバーシブル」は猫騙し編で否定されたので要素から外す)
あたりは確実に言えそうだ。次に、そこまで確定的ではないが抽出できそうなのは
(D)詩音と沙都子は直接的加害者になっていない(沙都子は、鬼騙し編については留保あり)
あたりだろうか。
【「ひぐらし 業」の世界はどうやって成立したか】
これらを観察するに、やはりというか、うみねこと同様に「当時の雛見沢の人物をよく知らない人物が、伝聞情報を元に梨花の死にまつわる様々な物語(二次創作)を書き散らしている」という理解が最もしっくりくる。それは例えば、個々の人物がある時は旧ひぐらしに則った「まともな」動きをしているかと思えば、突如症候群の末期症状を発症していきなり梨花を殺しにかかるという点にも表れている。これは言いかえると、「古手梨花がこの世界を生き延びるために惨劇のフラグが立たないよう奔走するが、」
そこに到る流れは大よそ次のようなものではないか。
かつて「雛見沢」という地で起こった出来事を、架空の話として古手梨花から聞かされた何者か(八城幾子=アウローラ=羽入?)が、創作意欲にかられて「古手梨花が雛見沢症候群の末期症状患者に殺される」という物語を創作した、と(これは推測にすぎないが、古手梨花はそれまでループ世界の中で経験したことを、閉鎖的な共同体で起こった架空の惨劇として誰かに話す一方、核心に触れるがゆえに自分も含めた人間へ実害が及びうる鷹野三四の計画については意図的に触れていないのでは?すると「ひぐらし 業」で鷹野三四が中心的な役割を果たさない理由も説明できる)。まただからこそ、うみねこと同じで、登場人物たちは「駒」でしかなく、ある事件では被害者だった人間が違う話では平気で加害者になることが起こりうる(解釈違いとリバーシブル)というわけである。
とはいえ、この考察には弱点がある。というのも、「なぜ古手梨花が狙われる話なのか」が説明できないからだ。これまた推測の上に推測を重ねるしかないのだが、猫騙し編で梨花自身に「罪」の話をさせていることからすると、少なくともこの世界の創造主は彼女に何らかの「罪」あるいは「業」があるとみなしている可能性が高い。とするならありえるのは
1:過去の惨劇について話してしまったこと自体がアウト
→でもタブー(例えば羽入との約束)みたいなのってあったっけ?
2:それを話すことである人物が大きなマイナスを被った
→症候群とその症状、そして沙都子にまつわる両親の「事故」の話が誰かに影響を与えた?
(それによって沙都子が自殺未遂などをして、聖ルチーア学園絡みの人間=詩音がブチ切れる、とかか?あるいは悟史絡み??)
3:聞き手が純粋に梨花の話や世界の理解の仕方を不快に感じた
→他人を自分が生き延びるための駒みてーに思ってるんじゃねーぞ(# ゚Д゚)となって懲らしめたくなった
(旧ひぐらしの梨花のあり方を思えばこれは言いがかりの要素が強いが、一方で彼女の斜に構えた言い方や、あるいは雛見沢の惨劇を話す際に旧ひぐらしの時のベルンカステルの詩みたいな言い回しをしたとすると、こういう反応をしても不自然ではないかなと)
あたりか。今までの考察的には梨花が「ひぐらし 業」の世界に捉われる必然性として彼女が意識を失うような状態になることを想定していたため2を疑っていたが、「ひぐらし 業」の惨劇が起こる構造(旧ひぐらしの人物理解を元に惨劇を回避しようとすると、そこからまた別のところでフラグが立ってしまう)からすれば3も結構ありえるなあと思う。
【この世界からの「脱出」方法について】
ここまでの考察でほぼ一貫しているのは、「ひぐらし 業」の世界がいわゆる「虚構内虚構」ではないか?ということだ。こう考える理由は今述べたような「個々の犯人像を仔細に考察することの無意味を猫騙し編が暗示している」ことに則っているが、もう一つはOP2番の歌詞である(今改めて見返すとかなりの程度本編の展開をなぞっていると感じられる)。
すでに考察記事は書いたのでそちらをご覧いただきたいが、要するにそこでは「ひぐらし 業」の世界が作り出されたもの(歌詞を引用するなら「張りぼて」)の可能性を暗示している(ついでに言えば、「もっとキミを知りたくて」の主語はOP1番の「嘲笑った」の羽入=アウローラと同じで、八代幾子=「ひぐらし 業」の物語の書き手を指しているのではないかと考えられる)。
さて、このことを踏まえると、古手梨花はどうやったらこの「ひぐらし 業」という名の世界=責め苦から逃れることができるのだろうか?そこで興味深いのは、同じくOP2歌詞の「麻酔のように堕ちる意識が全てを始める」という部分だ。「麻酔のように堕ちる」は「死」の暗示だとして、それが「全てを始める」とはどういうことだろう?そう考えみた時、私はひらめいた。「ようし、わかった!!(金田一刑事並感)」
前述したことだが、「ひぐらし 業」の世界は、梨花が旧ひぐらしの人物理解に則って惨劇を回避しようと奔走し、そしてその理解の埒外(物語の書き手的には「梨花の行動原理を逆手に取って」)からの襲撃によって落命するという話であった。とするなら、「ひぐらし 業」の世界は(旧ひぐらしがそうであったように)生き延びることではなく、「死に方」が重要になる世界なのではないか?つまり、生きることに拘泥するのではなく(それをやると失敗からの徒労感と絶望感が深まるだけ)、ある決められた死に方をすることにより、この世界から抜け出せる(「全てを始める」)のではないか?
そう考えると、いかにもなブツが出てきたではないか。そう、猫騙し編の冒頭に出てきたオヤシロソードの欠片である。これで自害することが、実はループから抜け出す方法(正解)なんではないか?
いきなりの話に「お前も症候群になっちまったか・・・」と思われたかもしれないが、これまでの展開と本編の流れに沿ったOPを重ね合わせてみる時、この可能性は十分にあると思うがどうだろうか?
まあでもこの話をしてきたのは羽入なんで、ワンチャンここまで含めて罠である可能性もあるのだが(苦笑)、まあそん時は潔く白旗を上げることにしますわw
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