宮崎哲弥と呉智英の対談である『知的唯物論』を読んでいた時、北村サヨといったある種のカリスマに関して述べている部分で次のような記述に出会った。
宮崎
でも、トランスとか、神懸かりというのも、つまらないといえばつまらないんです。脳科学的に解明可能だとかいう話も陳腐ですしね。仮に体験そのものは興味深くとも、その後に当人や周囲の人間がその体験に与える解釈がつまらない。言葉に捕捉されてしまっているから。そういう意味では、言葉をギリギリまで言葉で追いつめることで、言語の限界を明らかにしようとする仏教はやはり面白いと言わざるを得ません。いささか護教的ですが(笑)。
先日の「アタラクシアとディストピアの間で」でも書いたが、私は人間の認知科学的・薬物的な操作可能性について大いに興味がある。しかしそれは、神秘体験も科学的に説明ができるとか、それゆえにくだらないといった理由からではない。今後人間の思考・情動のメカニズムはますます明らかになってくるだろうが、私はその帰結が人に与える影響について関心を寄せているのである。たとえば人間の外部に関して言うと、天体の運行のメカニズムが分かる前、それは神秘であり、超越的なるものであった(古代エジプトにおけるオシリスやラーなどを思い返してみるとよい)。しかし法則が「発見」されることにより、それは反復(予測)可能な物理現象となった。さて人間の内部つまり感情に関して言うと、たとえば恋愛感情については時に「運命的」「純愛」などという言葉が使われ、一回性や純粋性(反復不可能性・交換不可能性)が強調されることがある。しかしもし、それが薬物的に追体験可能であったらどうか。当然のように、それは神経伝達物質のなせる業にすぎないとして、その神秘性・特殊性は剥奪されざるをえないだろう。
そうなった時、人はどのように振舞っていくのか。非常に大雑把に言えば、このポストモダンの時代においては、原理(理論)よりも実践が尊ばれるようになってきている。要するに、その拠って立つ背景よりもむしろ、実益が求められる。それは原理・理論の後退と言ってもよいが、その結果として理屈よりは目の前の感覚・感情に飛びつきやすい社会になっているとも言える(人間の内面を思想的に管理するパノプティコン的な社会から、生理的にコントロールする社会への変化にもそれは反映されている。なお、それゆえに私は死刑制度に関しては倫理や人権よりも先に効果を問題とし、また多様性の承認についても「楽しみの幅が増える」という実益的な話をするようにしているのだが)。理論が不確かな今、信じられるのは感情・感覚だけ、というわけだ。さてそのような状況において、感情という名の寄る辺をも剥奪された人々は次に一体何を求めるのだろうか?「これで重々しく考えずに済む」と解放感に浸る人たちがいるだろうし、便利なものとしてどんどん活用する人たちも出てくるだろう。あるいは、そんなものは使いたくないと拒絶する人もいると予測される。しかしいずれにしても、感情・感覚の神秘性・特殊性は間違いなく損壊され、それを自らの拠り所(「避難所」と言っていいかもしれない)とするのは大いに困難になるだろう。
その時、人は苦悶しながら生きるのか、技術をうまく活用して案外楽しんで生きるのか、それとも死を選ぶのか・・・まあもっとも、他者や不快なものといった「ノイズ」排除の方向に邁進するのを不思議に思わない人が増えているように感じられる昨今、感情を薬物でコントロールできるようになった状況はむしろ望まれるものであるかもしれない(『ヤンキー化する日本』にあるような「感情・実感に基づいた本音を話せる人こそ信用できる」という日本的な発想が、これによってどのように影響を受けるか・受けないかも興味深いところだ)。ともあれ、そのような人類の行く末に興味があるがゆえに、私は人間の認知科学的・薬物的な操作可能性について今後も考えていくことになるだろう。
[問い]
以下の文は問題文中のいずれかに入る。その直前の文の最後の3文字と直後の文の最初の3文字を答えなさい。
交換可能性と実存の問題は現代的な話と思うかもしれないがそれは違う。たとえば、「源氏物語」において光源氏が三ノ宮と結婚した後で紫の上が煩悶するのは、正妻云々よりもむしろ、自分が「藤壺の代わりでしかない=交換可能な存在である」ことに気づいてしまったからだ。
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