前に『算数文章題が解けない子どもたち』という本を取り上げ、そこで問題になるのはしばしば計算力ではなく国語力だと述べた。
その中で、この問題は古典教育や国語教育、あるいは松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない』など、様々な領域に関係しうると述べたわけだが、ここでは後者について少し掘り下げてみたい。
一応「松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない』:あるいは共通前提の消滅と、コミュニケーションの未来について」と題した記事の後半で触れてはいるのだが、ここで述べたいのは「問題を解く上での基本スタンスの有無」である。少し長いが、関連部分を引用すると以下のようになる。
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とある講演で「①彼女は海が好きだ」「②彼女は海が好きだった」という二つの文を見せ、「今も彼と彼女は付き合っているか」と問うたら、多くの聴衆は①は現在も付き合っていて、②の場合は付き合っていない、と答えたという。しかし、その時一緒に公演をお願いしていたASD(自閉症)の人は「私には別の可能性も考えられるから、その質問には答えられない」とし、「前は海が好きだったけど、嫌いになったかもしれないし、山が好きになったのかもしれない」との意見を出したという。著者は、言葉だけの分析としてはその解釈を否定できないとしながら、彼と彼女の詳しい情報が与えられていない以上、話者の意図を汲んだ上で最もありそうだと判断した回答をするものだ、と述べている。
少し表現が曖昧で著者の意図が若干伝わりづらいのだが、これは国語のテスト問題として読み替えると、「多くの聴衆」の対処法と、自閉症の人の発想法の問題点がそれぞれよりクリアになる。すなわち、ここでの設問要求は、①と②の文言も踏まえた上で、「今も彼と彼女は付き合っているか」なのである。とするなら、①と②にはそれを峻別するヒントが示されていると考えるのが妥当で、その前提で読み解くなら、①は現在形から「付き合っている」と判断し、②は過去形から「今は違うという含意がある」、すなわち「付き合っていない」と判断することができる。
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これだけだとわかりにくいかもしれないが、抽象化するとここでの問題は「設問要求の読み取り」・「蓋然性と可能性の峻別」と言えるだろう。つまり、
1.①と②の文が並列され「今も付き合っているか」という問いが立てられているのだから、両者にはその点で違いがあるはずだ
2.両者には「好きだ」「好きだった」という表現以外に違いがないのだから、ここにヒントがあるはずだ
3.過去形を用いている②は「今は違う」という含意が読み取れるから、①は付き合っていて、②は付き合っていないという結論になるはずだ
こういった意識化されない前提がいくつもあって、マジョリティ(定型発達)は答えを出しているのに対し、ASDの人は設問要求から条件の絞り込みや着眼点という要素なしに日本語だけを切り取って考えるから、「答えは出せない」という返答になるということだ。
このASDの反応は一見「理解できなくはないが特異な思考」と感じられるだろうが、前掲の『算数文章題が解けない子どもたち』にはこの手の読み方というか、単に文章題の数字だけ抜き出して繋げたり、最近習ったばかりの知識をそこにただ当てはめるという誤答パターンが様々紹介されており、このような「設問要求を理解できない人たち」というのが4割近く見られる場合もあり、その意味で割とありふれていることに気付かされる(まあもっと言えば、それが中学・高校となり経験値が積み重ねられれば、読み取りや軌道修正のできる割合は増えていく、のだろうが)。裏を返せば、教育というものを考えていく場合に、学齢が低くなればなるほどこういう暗黙の前提が通用しないケースがままあることを理解しておくことは、指導上しばしば重要になるとも言えるだろう。
ちなみに「蓋然性と可能性の峻別」については、いささか迂遠な話になるが、以下の二つを挙げておけばよいだろう。
1.可能性の話をしだすとキリがない
先のASDの人の返答は一見「まあ一応ありえなくもない解釈」なのだが、実はそうやって可能性の問題を取り沙汰し始めると、収拾がつかなるなることは容易に想像できる。例えば次の項目にも関連するが、「あなたは~という解釈もありえるので答えは出せないと言っているけれども、だとすると一つ疑問なのは、これらの文章が現代日本語で、文意そのままに理解できると考えた根拠はどこにあるの?」と聞かれたら、何と答えるのだろうか?
つまり、「設問要求→根拠探し→結論」というツリー構造で蓋然性に基づいて答えを当てに行くという方式ではなく、(極論)無限の可能性を考慮するのであれば、「そもそも①②は現代日本語ではない(なぜならこれは現代日本語ですと明言されてはいないから)」という可能性も吟味されなければおかしい(念のため言っておくが、こういう発想をナチュラルにやり始めるのは何かまずい状態に思考や精神が陥っている可能性が高いので、もし友人がこういうことを言い始めたら私は診察を受けることをお勧めする)。
要は、設問要求に基づいた推論を無視して「~の可能性もある」と言いながら、実はその手前で無限の可能性を無意識に除外している時点で、恣意性を免れることは決してできないのである。ちなみに今述べた話をユーモラスに楽しみたいなら、榎本俊二の『ムーたち』という漫画が大変おもしろいので一読をお勧めしたい(抽象的なレベルで、てことならヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とかになってくるが)。
2.「問題」は解けるようにできている、という暗黙の前提
これまた何を当然のことを、と思われるかもしれないが、今やネット記事やYou Tube動画でもトンチのような問題が日々紹介されている今、こういう視点の話をしておくのは無益ではないだろう。
すなわち、出された「問題」というものは基本解けるようにできているのであり、ゆえに「正解なし」は文句を言われるのである。ただし、先に述べた「設問要求→蓋然性→結論」というルートに固執すると沼にハマるタイプの問題があえて作られることはしばしばあり、この場合は発想の展開が必要になるのだが。
さて、問題は解けるはずであるなら、そのヒントが何らかの形で提示されている必要があり(x+y=zとだけ言われてもどうしようもない)、そうである以上は、与えられた問題をしっかり読み込み、条件設定や違和感などを理解しようとする訳である。
1で述べた「設問要求→蓋然性→結論」というツリー構造は、当然ではあるのだが、この2を暗黙の前提としている。逆にそうでなければ、解答の可能性が大きく広がり過ぎてしまい、まさしくASDの人が①②の文に示したようなスタンスを取らざるをえなくなるだろう。
・・・とここまで読んで違和感も持たれた方もいるだろうが、今述べた「問題」というのは実際のところ「テスト」と読み替えた方がわかりやすいし、誤解が少ないだろう。
そしてここであえて突っ込むなら、「勉強」や「テスト」と「学問」を混同してる人たちって、基本的にここを履き違えているんだろうとも思う。というのも、前の2つは解けるように作られており、かつそれに向けた訓練のことである。多少の皮肉を込めて言うなら、「箱庭の予定調和」とも表現できるだろう。
一方で後者は、答えが出る保証などどこにもない。それは誤った前提に立った実験により有意な結果が得られないということかもしれないし、あるいは規則性を見出すに足る材料が足りないため言語がいつまで経っても解読できないということかもしれないが、ともあれ「ナンノセイカモエラレマセンデシター!」という事態は普通にありうるのである(何度も繰り返すが、「答えが出る」というのは別に保証されてなどいない思い込みの産物に過ぎない)。
この違いをわかってない人たちが、多少知識を詰め込んだぐらいで物知りになった気分になっていると、「学術の世界では99%のことは仮説(不確定・不明)」」と聞いて驚くことになるわけだ(これは「ファスト教養」の話ともつながってくる)。
あくまで自分たちは、「世界」という釈迦の掌の上で踊る孫悟空に過ぎず、それを何とか体系化しようとして取り合えず一定の再現性を確認できたものが「定理」や「法則」と呼ばれ、そこから一定の便益を得ているに過ぎない(という認識が、「個人-社会ー世界」に対する自分のそれぞれのスタンスにも反映されたりしている)。
・・・という訳でちょっと抽象的な話をしたが、読解力や設問要求の話から「実は自分たちが自明でも何でもないものを様々無意識に前提化している」ということをよくよく堀り下げて見ると、あれこれ色々なことが認識できておもしろいのではないか、という話でおました。
以上。
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