前に情報化社会と大量のコンテンツ消費が「コスパ」思考の全面化という現象につながっている、という記事を書いた。これは人間関係についても同じことが言えるという続きを書こうとしたが、その処方箋やらも含めると過去記事との関連も相まって膨大な量になってしまったので、とりあえず今回は覚書だけ載せておくことにした。
・現代社会の多様性や複雑性は、成熟社会化の中で必然的に生じてきたもの
「コモディティは揃っている」、「人・物・情報の流動性の高さ」といった環境に大きな変化がない限り、この流れは不可逆
・現代社会において、人間関係を調整する難易度は一般的に上昇しているし、今後しばらくは上昇し続けると考えられる
日本のような「空気を読め」という(ハイコンテクストな)コミュニケーションは特に機能不全化する。正確に言えば、共通前提なき状況では、ただの同調圧力(サンクション>ベネフィット)として機能し、ゆえに集団に所属する不毛さも強まっていき、生きづらさが増しやすくなるとともに、そもそも集団に属さない志向が強まる。
・人間関係のハードル上昇と、閉鎖的コミュニティの形成。あるいはbot>人間的価値観の形成
以上述べた理由から、人間関係の「コスパ」は少なくともしばらくの間は悪くなり続ける(機械化などにより人間が労働からほとんど解放されるような状況になれば、むしろその「無駄」を楽しむ傾向も多少は戻ってくるだろうから、「しばらくの間」と表現している)。その理由は、自分を理解してもらうのも、相手を理解するのもより手間がかかるようになるからだ。そこを越境するより、内輪だけで集まる傾向が加速。これがすでに起こっている「たこ壺化」や「サイバーカスケード」の背景。これは近代の根幹にある普遍主義の後退でもあるが、その先に「bot>人間」という心性が生まれてくる(正確に言えば、気の合う人間>bot>よく知らん人間という形で、ある意味中世的人間観に後退する可能性すらありうる→新反動主義。これは極端な話でもなんでもなく、今日でさえ「大切なペットの方が赤の他人より重要」という人間はいるのである)。
なお、日本に関して言えば、なまじ外見や宗教、言語といった目に見える多様性がないため、そのことを深く理解し他者理解のための陶冶をすべきという社会認識や教育システムになっていないし、変更にも相当な時間がかかると予測。
・「コスパ」思考の全面化と、人間関係の志向性変化
理解が難しいノイズ交じりの他者との交流・理解より、あらかじめノイズが排除されたbot的なるもの(それは「麻薬コンテンツ」とも言い換えられる)との戯れの方に実りを感じるようになる人間が増えていくのではないか、ということだ。
・歴史を見る限り、人間が劇的にアップデートされることはない。しかし、AIならそれがありえる。
前述のように、人間理解のハードルが上がった結果として、人間への期待とそこへ向かうインセンティブが低下し、それと反比例するようにAIの質が向上する結果、少なくない人間の中で、あたかも需要供給曲線のごときゲージの変動が起き、先に述べたbot>人間という認識を持つ人間が増えてくる、ということ。
性愛もしくは性的眼差しについても、半分ネタにしつつ「オメーのムラムラに忖度してられっかYO!」で書いた通り。まあさすがに、「生身の人間と性的に関係することはリスクが伴うことは明らかなんだから、それで被害に遭っても自己責任」とか言われるような無茶な社会にはならんと思うが、それでも性愛や性的満足は「代替物」で済ませ、社会存続のための出産はリスクの少ない仕組みでどうぞ、というディストピア的な発想が出てきても、さして驚くには値しない(とはいえこの点は、宗教的世界観も大いに関係してくるため、地球規模で全面化することはそうそうないだろう。まあここには将来的に人口増加と環境問題が絡んでくる可能性が高く、そうなると人口抑制という要素が追加され話が変わってくるのだが・・・余談だが少子高齢化によって日本の人口が半減する未来がプラスに働きうる可能性は、こういうところにあったりする。何せ「合法的かつ大量に人口を減らすことは難しい」ので。ただまあ日本一国がサステナブルな状態になっても、地球規模でアカンならやっぱヤバいんだけどね。色々輸入に頼ってるものもあるし)。
・おそらくここでカギになるのは、「承認(欲求)」のあり方→ホネットの承認論など
「生身の人間との関係性にどうしてこだわるのか?」と疑問を持つ人々。それに対し、「AI的なるものはただのプログラミング(予定調和)ではないか」という反論はできる。
とはいえ、「生身の人間関係にある予定調和的やり取りは何なのか?」「なぜ人間だけを特権化できるのか?」という再反論も可能。これからどんどん他者理解のハードルが上がって表面的コミュニケーション化が進んだとすれば、ますます人間とAIの境界(選択)を説得的に説明するのは困難となる。
そしてそこに、前の記事で述べた「なぜ予定調和ではいけないの?」という感性(ネタバレOK・倍速再生)が拍車をかける。この予定調和=計算可能性の外を厭う心性こそ、前に述べた情報化社会と大量コンテンツ消費により強化されてきた傾向である。
・これを踏まえた私見は、「価値観の多様化が進み、結果として社会の分断が進む」
1.人間至上主義
2.人間>AI。あくまで後者は補完物
3.どっちでも可(Anything will do!)
4.AI>人間。ノイズだらけの人間がむしろ邪魔
こういった状況により多様化・複雑化する結果、人間関係のハードルはさらに上がり、それがますます3や4のような傾向を助長するのではないか。
これまでの歴史からすると、1が最も望ましく、4が最も危険に思えるかもしれない。しかし1を志向する場合、例えば生身の人間との関係性から排除されたと不全感に苛まれる存在をどうするのか?特にインセルのような、それが他者への暴力的態度まで深刻化したケースをどう手当てするかを考えておく必要がある。べき論を唱えているだけでは、社会の変化に取り残されてルサンチマンからシステム自体を破壊しようとする人間の増加を止められない(まあこれは9.11やらの後でアーキテクチャーの維持と絡めて議論されてる話だが。日本については先の安倍晋三暗殺とその動機づけを想起したい)。
・そしてこのような分断は、「民主主義の機能不全」あるいは「(国家というレベルでの)民主主義の終わり」にますます拍車をかける可能性
→マトリックス的共生の志向?(は今のところ非現実的)
→共同体の縮小化?(ルソーが言ったように、2万人くらいの単位にまで規模を抑えるなら、機能不全を多少は食い止められるか?)
→新反動主義・加速主義的未来の可能性
・これについてのミニマルな処方箋→鷹嶺ルイというVtuberのこと
仕事もできて気遣いもできる非常に有能な人。しかしホラー耐性は全くなく、時々エラいponをやらかすwそのギャップ・意外性も非常に魅力的。
・「ギャップ」・「計算外」を楽しむスタンスを持つことの重要さ(エンジョイアビリティを広げる)
→「統一的な自己」という思い込み、あるいは自己を縛る檻から自分を解放する(他者からの抑圧についてはAdoの「うっせえわ」)
→オープンマインドでいることは、単に相手への鷹揚さ(寛容さ)だけでなく、自己の可能性を拡張することにつながる
→ちなみにこの逆の典型が条件付き承認を元にコントロールしようとしてくる毒親である。
→ただし、先の例は「バーチャルな存在であるがゆえのハードルの低さ」は当然考慮しておかねばならない。
・とはいえそれを、「多様性重視の規範」として提示しても響かない(ただのお題目)。だから、一種の「享楽」としてプレゼンしてみたのが「オールレンジグリーン」という話(事項参照)
ゆえにこそ、朝井リョウの『正欲』で描かれる、多様性が大事だと言ってるだけの連中に対する批判的眼差しには完全に同意する
・「オールレンジグリーン」
性的オリエンテーションについて、半ばネタ的に「属性多い方がよくね?」という「オールレンジグリーン」を称揚するようなことを書いたが、それは「内面化された規範を相対化せよ」ということと同じ(歴史や社会学、認知科学の知見を重要視する理由→思い込みから自由になる)。
・しかし、あらゆる(もしくは多くの)人間が多様性を重視する価値観を身に着けるなどとは、全く考えない(その可能性を信じていない)
その要因は固有の世界観なのかもしれないし、生理的嫌悪感かもしれない。とはいえ、共有不可能性という断念を踏まえるがゆえに、社会(公共)のレベルでは「話せばわかる」というナイーブな志向ではなく、共生の作法が必須という認識になる(ローティのリベラルアイロニズム)。
そもそも、先の「オールレンジグリーン」にしても、きちんと説明しておくなら、痴漢や盗撮、小児性愛etc...といったように、「他者に危害を加えなければ何をしてもよい」という自由主義の根本原理にすら抵触するものは様々存在するわけで、そういったものを承認することは当然できようもない(先の『正欲』も参照)。
・『反逆の神話』で描かれたカウンターカルチャーへの批判的視点に同意する理由
それはカウンターカルチャーに耽溺する人々が、しばしば差異化戦略に乗せられている(ということに無頓着)こともあるが、まあそれは個人的な話なので好きにすればいい話(ブルデューの「ディスタンクシオン」も参照)。問題なのは、そういった「システムへの反逆」を行っていると自負している人々が、政治という公共の複雑な調整の場についても、まるで「愛があれば理解し合える」とか「ノリが合えば大丈夫」ぐらいに考えており、多様な価値観の人間が蠢く中で、迂遠ながら適宜調整を行っていくことの困難さと重要性などまるで理解しようともしていないように見えることだ。そのように、個人あるいはグループでの嗜好を、永遠の微調整が必要とされる場にそのまま適応できると考えるナイーブさが、最も危険であり、それゆえに悪なのである。
→あるいはユング的発想が、神なき宗教(イデオロギー)として機能する危険性
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