以前「なぜ銅の剣までしか売らないんですか?」の動画版を紹介した際に、「これが世界理解の基礎教養」と話した(「結論」すなわち「あるべき姿」という意味ではない、という点に注意を喚起したい)。つまり、「この程度」の事柄(歴史や現実社会のシステム)も知らずして、世界に希望を抱くのも失望するのも愚かである点において変わりはない、ということだ。
これを見たならば、利己的な怒りも、利他的な善意も、ともに「エンターテイメント」になりうるし、特に後者はそこにコミットすることに大義名分があるから、なおのこと利用もされやすいということに気付くだろう(こうした誘因力もあるから、別の記事で書いたが「正論」は強いし活用されるのである。なお、不都合なものの外部化や不可視化については私たちの生活用品を作ってくれている途上国での低賃金労働はその最たるものだが、日本という国においては外国人技能実習生問題、という形で実はかなり見えやすい状態になっているのに、安価な労働力に関するコメントではその話題があまり出ていなかったのは、やはり自分たちに不都合なものは考えなくしてしまいやすい、というところか→「未来予測ではなく、停滞を表す」)。
前に『鬼滅の刃』という作品が利己と利他が対立軸として描かれ、利他を称揚する作品である(ただ、利己に流れる者たちへの理解も示している)、という話を書いたが、一方でそこから「利他の立場に立てばオールオーケー」などという単純な話を導き出すこともできないと、こういった理解があれば思い至るはずだ。そして、このような見地から出発してなお、 利他の理念を失わなず、それを実現すべき最適解を模索し続けようとする人間に私は深い敬意を示すだろう。なぜならそこには、並々ならぬ情念と覚悟が必要だからだ。このような意味において、(ナイーブな社会理解を厳しく批判する一方で)私は「情念が好き」なのである。
とまあこれまでの記事に結びつけたところで今回は終了。では次の記事でまたお会いしましょう。さよなら、さよなら、さよなら・・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます