なぜ銅の剣までしか売らないんですか?:毒性が抜けさえすれば、麻薬(bot?VR?)に耽溺する未来はすぐ隣にある

2021-03-28 11:30:30 | 感想など

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最初はRPGあるある(何で最初の町は弱い装備しか売ってないの?)への突っ込みかと思わせておいて、その実歴史や現代社会を鋭く風刺するこの作品も、いよいよクライマックスを迎えようとしているらしい。

 

前回紹介した第8話が発表された後、原作を買って読んでみた。すると特に今回の9~12話におけるマイアー家のくだりはちょいちょい変更点があっておもしろかったが、要は主人公の行動原理をもっと受け手に伝わりやすくする(単に己の力を過信して粋がっている人間ではない)とか、陰謀を阻止する動きにもう少し厚みを持たせる(+主人公を罰したい受け手のガス抜き+主人公をピンチに追い込むという演出)とか、色々演出意図が垣間見えたように思える。

 

たとえば原作だと、主人公がオピン(もちろん麻薬の隠喩だ)の流行に嫌悪感を抱き、それを止めようとするのはいささか唐突に見える。やや強引に解釈して、それが主人公の重視する自由意思、あるいは努力しようとする人間の意思を根底から破壊してしまうから、ぐらいにしか感じられないところだ。

 

しかし動画版の方では、主人公なりの善悪の境界があることが、多少は納得しやすいものになっていると思われるのである。つまり、主人公の弱肉強食というかサバイバルへの意思はサンカクも言うように「確かな背景」があるのであって(一般化すると、たとえばアダム=スミスの「神の見えざる手」と「道徳感情論」の関係にも似ている)、それは単なる「何でもあり」というのとは異なっている、ということだ(余談だが、こういう親というのは世界に普通に存在するのであり、例えば子どもの尊厳を平気で破壊するような親は今日だと多少認知されるようになってきており、それは「毒親」と呼ばれたりしている。これを理解することなく「親というものは~だ」と臆面もなく言い、他人の親子関係についても平気で適用しようとするのは、単に無知で想像力が欠落しているだけのことだ)。

 

つまるところここで描かれているのは「リバタリアニズムの発想VSリベラリズム・コミュニタリズムの発想」とも言えるのだが、それを踏まえた上で、ラストも原作と似通った展開にするのか、はたまた多少の変化を加えるのか、非常に興味を引くところである。


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