鬼滅の刃:上弦の弐「童麿」の発言とその世界理解について

2021-03-21 11:22:22 | 本関係

前回は「鬼滅の刃」の根幹となるテーマについて書いたので、次は他の作品との比較をやろう・・・と思っていたら、あまりにテーマが重くなりそうなので、軽そうな方から先に掲載していきマッスル(゚∀゚)アヒャ(とか言いつつ、結局この話は「なぜ銅の剣までしか売らないんですか?」についてのレビューの中で、「鬼はゼロ年代を代表するバトロワ系を表象した存在である」とすでに書いたのだがw)。ちなみに、ここで紹介するのは鬼滅の刃の中でも白眉のシーンの一つなので、極力ネタバレを回避しつつ書いていきたい。

 

鬼滅の刃は鬼を含めキャラクターが立っており、その中でも目立つ存在の一人が、上弦の弐「童磨」である。

 

基本的に鬼たちは、死ぬ間際に人間性を取り戻す。つまりは、自分がかつて持っていた絆と、それをどのように失ってどのように鬼になったのかを思い出し、それが即ち「人間性の回復=鬼としての死」という風に描かれている。この点については下弦も上弦も関係がなく、またそれが人間性の回復であるがゆえに、作中人物からの同情的なセリフも見られるわけだ(ここに勧善懲悪的でないオフビート感がある、というのもすでに指摘した通り)。しかし、その中で唯一と言っていいほど人間の記憶を取り戻しても全く同情されない・されている描写がないのが、この童麿である(彼に対し、あるキャラクターから最後にかけられるセリフを想起すれば十分だろう)。

 

それは彼が、自分の家族や関わった人間を思い出しても、その絆の大切さに気付くことがなく、ただ自分の中に沸き起こった感情を述べるだけ=最後まで自己中心的であったからだが、そんな童麿は「鬼=ボタンの掛け違いで偶然悪に堕した者たち」という単純な図式化を拒絶する存在であると言える(なお、特別な存在として祀り上げることが人間性をいかに毀損するかという教訓的描写、と見ることもできるだろう)。

 

さて、今回童磨を取り上げるのは、今述べたようないささか特異な立ち位置もさることながら、彼の作中でのセリフが自分のブログでの発言と似通っている部分があり、思わず苦笑いすることになったからである(;´∀`)

 

その一例を挙げると、「可愛そうに、極楽なんて存在しないんだよ」・「人間が妄想して創作したお伽話なんだよ」・「神も仏も存在しない。そんな簡単なことが、何十年も生きていてわからないのだ」・「死んだら無になるだけ。何も感じなくなるだけ」・「心臓が止まり脳も止まり、腐って土に還るだけ。生き物である以上須らくそうなる。こんな単純なことも受け入れられないんだね」・「この世界には天国も地獄も存在しない。無いんだよ、そんなものは」・「人間による空想。作り話なんだよ。どうしてかわかる?」・「現実ではまっとうに善良に生きてる人間でも理不尽な目に遭うし、悪人がのさばって面白おかしく生きていて甘い汁を啜っているからだよ」・「天罰はくだらない。だからせめて、悪人は死後地獄に行くって、そうでも思わなきゃ精神の弱い人たちはやってられないでしょ?」(句読点は筆者による)といった具合。

 

これと類似の発言・発想は、このブログで言うと「独断と偏見による日本無宗教論」などで書いている。まあこういう発想自体はシニシズムとみなされがちだが、様々な人間の生き様の記録を集めた司馬遷が2000年以上も前に「天道是非」と喝破したように、この世界の実情をつぶさに見たならば、そこに因果応報的なるものがルールとして成立しているとは全く言えない、というのが誠実な認識・解答になるし、そこからは必然的に上記のような発言も出てくるわけだ(なお、世界についての勝手なルール解釈については、童麿については目や髪の色に特別な意味が見出されて祭り上げられる話であり、自分のブログだと「宗教と思索」で書いた「雪という名前と寿命」が典型的だ)。

 

しかしながら、疫病などを「神の罰」とする発想からも明らかなように、人間は偶然性がただそのまま偶然性であると受け入れることができない、すなわち意味を強く求める存在でもある(ここでハラリの『サピエンス全史』を思い出す人がいるかもしれない)。そのため、「何らかの理由づけをせずにはいられない」という宿痾から、天国や地獄を含めた「見えないモノへの妄想」を生み出さざるをえないのだ(一応言っておくと、「まあ宗教によってそういう欲求が満たされて安定して生活が送れるならいいんじゃね?」という趣旨の発言をしたのがパスカルで、「いやいやそれで自分の現状を納得して甘受するなら麻薬と一緒じゃねーか!」と言ったのがマルクスである)。

 

一応言っておくと、私の場合は身近な人間やその営みを大事であるし愛おしいと思うのと同時に、親しい人間にも無関係な人間にも死は平等に訪れるし、生に別段意味などない(とゆうか「意味」という名の重しから解放された方がよい)と言ってるのであり、死ぬ時でも感情が湧かず、周囲の人間への愛着を最期まで持ちえなかった童麿と同じってわけじゃあないぜ・・・などとわっちとしては主張したいわけですが(笑)、自分のような発言は得てして童麿的(ストレートに言うとサイコパス的)にしか受け取られないからこそ、私はこの話を対面で特定の相手に向ってすることは一切ない。

 

というのは、いくらそこに身近な人間への愛情や哀悼が実際あったとしても、人はインパクトのある(つまり非日常的・異常と感じられる)発言や行動にどうしても目がいくものだからだ。ゆえに、「なんかあいつクレイジーなこと言ってるわ」で話が終わってしまうわけで、それじゃあわざわざ発言する意味ねえわな、という理由で意図的に沈黙を選択しているのだ(前にも書いたが、私の人間に対する「不信」は、裏切るとかそういうことではなく、要するにこういった話が理解できると全く思っていないし、ましてそれが日常的な感情と同時に成立することを他人は理解も納得もできないだろうと考えている、という意味だ。これは「極限状況」「夜と霧」に関する記事でも述べたのだけど、自分の接する人間たちが善良で大切な存在に思えることと同時に、そういった人たちが極限状況では容易に人間性を失いうるし、当然自分にも同じような事が起きうることを理解できない=想像力が欠落しているし、そのことを把握できてもいない、ということだ)。

 

鬼滅の刃という作品は、人への信頼を元に絆を結び、利他に生きる者たちと自分しか信じず利己に生きる者たちの相克の物語なのだけど、自分の場合はこの作品を読んでも人に対する強い「不信」(繰り返しになるが、裏切るかもしれないから疑心暗鬼になる、といったことではなく、端的に世の摂理を理解できると全く思えない、という意味)は全く揺らぐことはないなあと思っていたりする。まあこの辺は、エヴァンゲリオンを中・高生で見て「むしろ何で他人が自分のことを理解できると思っているのか理解できない」という反応をしていたほどなので(だから作品としておもしろいとは思うけど、刺さりはしない)、まあそういう意味ではよほどのことがないと今さら自分の思考様式は変わりようがないわな、て話ではあるんだけど(・∀・)

 

まあこの点については、「わかりあえないことを前提にした上で、どう共生するのかを模索しよう」と思えないのは、基本的に幼児性を抱えた人間ではないですかね?と毒を吐いて終わりにしたい。

 

というわけで、童麿という一人のキャラクターとその発言について掘り下げつつ、自分のブログで過去に述べたことや表現のスタンスについて書いてみた。次回はおそらく鬼滅の原作を二周目読んでから書くと思うのでGWあたりになるんじゃないかと勝手に想像しているが、まあ気が向いたらどっかで触れるかもしれない。というわけで、オーヴォワール!


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