2010/10/10
場違い。店員を励ますため?アナルにはアナルの悦びがあるという。一人には一人の~二人には二人の~。何も持たないのはストアな者ばかり。いや、そういう人たちは我慢すること、あるいは我慢できている自分に快楽を感じているかな、かな。じゃあ何も持たないのは誰だ?誰だ、誰だ、誰だ!ポチもタマも死ぬ。久々にタッキナルディが授業中にもらったとかいう謎の歌を思い出した。まあそれはさておき、がんばれ店員!人間観察して書くときっとおもしろいぞ。
<フラグメント過ぎたるは>
ノイズの排除がノイズ耐性の低下を生み…という悪循環。「過ぎたるはなお及ばざるが如し」、「中庸」といった言葉を連想するかも。つまり「バランス感覚が大事」というわけ。but問題の解決にはならない。一体何をもって「過ぎたる」と言えるのか、その審級の合意不可能性にこそ今日的な過剰と混乱の正体あるからだ。どこがモデレートなラインかわからん→とりあえず良いと思われるものを選ぶか、あるいはそれを何かに任せきってしまう→ノイズがあるよりはない方がよい。不快なものはより少ないほうがよい。いいものを増やせば良いだろう。という思考に支配される=善意の逆説。リスクヘッジによる閉塞。良きものを組み合わせていった結果、悪しきものができあがる。
<理論と感情>
どちらが重要かという議論がナイーブだと批判した。そもそも二項対立で捉えられるのか?感情優先派→「価値観が多様化し複雑化した社会では真理などなく、ゆえに自分の感覚ぐらいしか信用できない」。理解できるが、それはマクドナルド的な環境管理型権力に対して全く無力で、不快感の暴走に抗えず(それを埋め込んだ基準への内省なし)、不安を煽るプロパガンダで容易に利用される[空の境界]。理論優先派→人間は感情的であるがゆえに間違い、争う(理性・合理・論理重視)。否、論理的である「がゆえに」間違うことがある、ということ=人間の必謬性。論理の恣意性、あるいはローカリズムに無頓着。人が全知ならともかく、前提となるものが変われば展開はいくらでも変化する。論理市場主義、カラマーゾフの裁判、神の罰の合理性。世界は人間は不合理(「合理」相対的)[この一文完全に意味不明]。オカルトに見る「合理」と「不合理」。徹底的な順接の先にその恣意性と限界を知る[よりよくあろうとすることが、かえって大きな悲劇へと繋がる]。
<祈りの海>
祈ること自体の無意味さを知りつつも祈らずにはいられない心持ちには痛みを覚える。しかし、祈れば平和が到来するという心性には吐き気を覚える。
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