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物事への認識と実態の検証

2006-02-25 17:37:10 | 抽象的話題
前回、人々の死生観や宗教観に関する認識と実態について論じた。そこで、より議論を明確にするために、認識と実態をテーマに書いてみたいと思う。

物事の実態を検証することは、およそ学問の基本であると言える。だがもし、考察対象となった物事に対する(例えば民衆の)認識が、実態を反映していないと判明した場合、それを単に誤ったものとして軽視するならば、検証の意味は半減してしまうのではないだろうか。これは特に、人文関係の学問について言えることである。これについて、2つの例を提示しよう。

ある系図の史料がある。そこでは、末子相続が常に行われているように描かれている。しかし、同時代の年代記などを検証した結果、その継承形態がほとんど遵守されていなかったことが判明した。その検証と実態の明示という作業は、もちろん非常に重要なものである。だが、それだけで終わってしまうのはもったいない。なぜそういう誤った情報が系図という形で残されているのか、ということも重要な検証の材料だからである。その理由として、例えば単なる知識不足ということが考えられる(まあこのパターンでは可能性は低いだろうが)。系図関係がよく把握できなかったがゆえに、末子相続の慣習に従い、それが行われたように辻褄を合わせた、というような具合である。またあるいは、故意に事実を歪曲したのかもしれない。この場合例えば、末子相続が行われてきた先に特定の人物をもってきて権威付けや権力の正当化を図っているなどの可能性があるだろう。しかしいずれにしても、末子相続が意味を保っていなければ成立しない作為であるのは確かだ。であれば、「末子相続は現実として守られないことがしばしばであったが、名目的な価値は依然保たれていた」と結論づけることができるだろう。


次に大衆扇動を取り上げよう。数々の偏った、恣意的な情報を取り上げ、それが実態を反映していないと指摘することは確かに大切な作業である。しかしまた、その情報が流される理由や意図、そういったものに人々が流される状況と理由(群集心理、権威主義、民衆が求めているものetc...)の分析も重要なのである。またそうすることで、情報の質がより明確につかめるのではないだろうか。大衆扇動の例とまでは言えないが、最近のネットにおける「祭り」や(マスコミやネットの)情報の質を分析し、そこから「感動の自己目的化」という結論を導き出した『カーニヴァル化する社会』などは、そういった研究方法・視点の好例と言える。


難しくはあるが、こういった視点によって、合っているか間違っているかだけでなく、間違っているならなぜ間違っているのか、といったところにまで意識がいき、より厚みのある検証ができるのではないだろうか。
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